それなり日記

映像作家、三宅美奈子の日記のようなものです。

人生は設計できるのか。

 

 

先日『PLAN75』を観た。観なきゃと思いつつ、公開からは時間が経ってしまった。

 


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近所の映画館に行ったのだが、なんとほぼ満席。しかも8割くらいは高齢者だった。なんだこの事態は。

高齢者が自分ごととして関心を寄せているんだなと思うと同時に、「おそらく分かりやすい希望を提示してくるような映画ではない」と予想していた私は落ち着かなかった。大丈夫なんだろうか?観てしんどい気分にならないだろうか?と。

だが、そんな気持ちなんてどう考えても大きなお世話である。そう思い直してスマホの電源を切った。

 

映画の内容に関しては予想通りだった。PLAN75が施行されたあと、淡々と描かれる高齢者の日常。働く若者や娘を思う母の日常。PLAN75に関しては非日常というかSF設定ではあるものの、現実世界と変わらない風景が描かれている。

そして登場人物の気持ちに少しずつ変化が訪れて、最後は関係性がクロスしていく。ラストは思った通りだった。手放しに明るいとは言い難い。

 

 

私は終わった瞬間、周囲の会話を聞かずに外に出た。いつもなら気になるのに。というより、単に聞こえなかったのかもしれない。

それくらいに暗澹とした気持ちになる映画だった。希望が全くない、ということではない。映画としてダメだ、ということでもない。

でも映画というフィクションの物語を超えて「そこにある老いと尊厳」みたいなことがのしかかってきた。『PLAN75』自体は尊厳死の是非を問うような内容ではなかった。だからこそ受け手側の環境や属性に左右された感想を持つと思う。

私は自分の親がその世代ということもあるし、自分もそんなに若いわけではない。だから生きていく素晴らしさも考えるが、そのまた逆も考えてしまうのだ。

 

 

私はできるなら尊厳を保ったまま死にたいと思う。たくさんの管に繋がれて意識がないまま生きながらえる、みたいなことは望まない。あくまでも私の望みで、これを家族がどう思うかはまた別であるが。

生の価値を他人に決められる筋合いはない。だからその状態になったとしても、誰かに死を推奨される筋合いは絶対にない。言うまでもないが、殺されるのも論外である。それらはただの優生思想だ。

ただ、「生きろと強制される」のはまた何か別の違和感がある。

 

 

結局「自分の意思」とはどこにあるのだろうか。死ぬ時に自分の意思が尊重される、なんてことが本当に有り得るのだろうか。

人は誰かと関わり、影響を与え合いながら生きている。「自分が死にたいと思った」は「誰かにそう思わされた」のかもしれない。「どんなに辛くてもできる限り延命して生きていく」と決めたとしても「周りの人のために、そう思わされた」のかもしれない。

孤独死孤立死ですらそうだと思う。「誰も関わってくれなかった」という、人の影響があるのだから。

 

本当の意味で「自分の意思に基づいて死を決める」というのはほぼ不可能なんだと思う。健康な時分に生き方を決めるよりも、死が迫ってきた時にその方法と時を決める方がより困難ではないだろうか。

誰と関わり、どう生きていくかによって死に方が変わる。生きろ、と他人に強制されたら違和感は感じるが、死に方を左右すると思えば「どう生きるか」については向き合いたいと思える。

もちろん不慮の事故など自分でコントロールできないことだってあるが、今からでも生き方を見つめておいて損はないだろう。

 

 

結局、私はリミットがないと行動できないのだ。最終目的が見えないと、どこに向かって歩いていいのがよく分からなくなる。不安症だ。

だから「いずれみんな死ぬし、死に方はどう生きたかに左右される」と思わないと人生を頑張れない。

 

本当はそんなことを考えなくても、もう少し人生においての細かな目標を持って生きていける方が良いんだろうと思う。

でもこの考え方は、私が三途の川を渡りそうになったことがあるというのも影響している。あと少しで向こう岸だったので、そこに圧倒的な区切りがあるのが体感として、分かってしまったのだ。

三途の川の話は、また書ける時が来たら書こうと思う。

 

 

 

 

 

ここのところ何も捗らなくてダラダラしていたが、もうちょっと積極的に生きようと思った。

ぼちぼち敢えて忙しくしよう。

 

 

 

 

 

おまけ。

つり革が全部、ボンタンアメの広告でした。

ボンタンアメは幼い頃から大好きです。
何故ってオブラートに包まれているから。そしてムチムチしているから。