それなり日記

映像作家、三宅美奈子の日記のようなものです。

追悼文に代えて

 

 

私はしゃべることが苦手なくせに脚本を書いている。

初夏に『伊参スタジオ映画祭』というところの脚本コンペに応募した。中編と短編、それぞれ一本ずつだ。そして先日、一次審査の結果が発表となった。

isama-cinema.jp

 

2本とも通過していた。正直、2本通るとは考えていなかったので嬉しい限りである。と言ってもここは三次まで審査がある上に、そこから更に一本だけが映画化に向けての製作補助金をもらうことができる。そこにたどり着くにはまだ先が長い。

応募し終わったらこちらにできることはほぼ皆無なので、ふんわりと気に留めながら待つしかない。もしも念を飛ばしておいたら効果がある、のなら飛ばすけれども。

 

 

再び書くが、私は言葉を発するのが苦手である。適切な言葉を選ぼうとしすぎて変な語順になったり、間がおかしくなったりする。文章においてもちょっとズレた単語を選んでしまったり、話が飛んだりしがちである。このブログも諸々の練習のために書いている。

特に20代は自分の言っていることもめちゃくちゃだったし、相手が何を言っているかもよく分からなかった。相手もポカーンこっちもポカーン、というようなことがそこそこの頻度であった。

 

だから私は「みんなが何を考えているのか、何を言っているのか分からない。宇宙人だ」みたいなことをうちの人に言っていた。冗談の時もあったが、わりと本気の時もあった。

そしてうちの人は「お前の方が宇宙人なんだ!」とかなんとか言いながら、私があれやこれやと説明を求めたことに対して解説してくれたり投げ出したりした。

つまり、私は通訳をお願いしていた。ふたりとも日本語しかしゃべらないが。そりゃ投げ出すこともあるよね。他人の言葉を噛み砕くなんて、七面倒臭いわ。

 

 

別に私は文章の意味が理解できないわけではなかった。むしろ幼い時から好んで本を読んでいたし、国語的な分野のテストも点数は高かった。それなのに考え方のズレなのか、会話をしている中で、他人の言葉に含まれる意図や本意を汲み取るのが苦手だった。

その人がどういう発想の元にその言葉を発したのか、自分の尺度で理解して返答すると会話が噛み合わなかった。相手の常識は私の非常識で、私の常識は相手の非常識、という感じがしてなかなかに辛かった。

 

 

映画を撮るには企画書や脚本が必要だ。そして監督はコミュニケーション能力も必要だ。

私は単純だったので、自分の好きなものを詰め込めると思って我流で映画を撮り始めてしまった。撮り始めたのが高校生の時だったから仕方ないとは思うが、自分の思う通りになんでも作れると思っていた。

 

撮り始めて間もなく「ひとりで絵でも描いてろ」と言われたことがある。そんなキツい言い方をしなくても、と思わなくもないが、今ならその言葉の意図が理解できる。(でもそれを言った人間はロクでもなかったし、やっぱり言い方は人柄が出るよな、と今も思っている。)

 

 

監督は現場をまとめあげる能力が圧倒的に必要なのだ。いくら物語を思いついても、完全にひとりきりで撮影する人以外は他者との関わりが必要だ。

俳優への演出だって適切な言葉を選ばなければならないし、各部署のスタッフにも意図を適切に伝えなければいけない。スタッフの提示する設計を理解できる頭も必要だし、俳優より前に自分が演技するかのように現場にいることが求められたりする。

 

素で好き勝手言っていれば映画が出来上がる、なんてことはあり得ない。いくら企画が魅力的だろうがなんだろうが、監督なんて誰かが動いてくれなければ作品を最後まで完成させられないのだ。

気難しそうな寡黙なイメージの作家だってたくさんいるが、きっと現場ではそんなことはないのだろう。ゴダールですら俳優の機嫌を取るために逆立ちしたんだから。

ひとつの時代を築いた大監督がそうなのだから、私なんて現場をスパイダーウォーク(ex.エクソシスト)くらいしないとワンカットも撮れないと思うべきなのだ。

こうやってすぐに調子をこいて適当なことを書くのも悪い癖だが、意図は伝わるかなと思っている。

 

 

人と関わるのがしんどくて映画にハマり、そこから映画を作ることになって、また人間関係で苦労した。なんで苦手なことをわざわざやっているんだろう、と思いながらも結局は映画が完成して誰かに見せることが出来た時の感覚が忘れられず、ここまできた。

苦手苦手と思いながらも、映画を作るためなら人の言葉も理解しようと必死になれたし、かすりもしなかった映画祭にも段々ノミネートされるようになった。ネックだった脚本も多少はマシになったのか、今回は一次落ちを免れた。

 

 

生きていくのに必要な能力が著しく欠けていた私だったが、映画映画と念仏みたいに唱えることでここまで生き延びることができた。

ある程度のことが出来れば、ちょっと欠けている部分が目立っていてもいいじゃないか、映画を褒めてくれる人はいるんだし。みたいに力を抜いた考え方をできるようになった。

 

なんにも世の中の役に立たない人間だから、映画くらい撮っていないと生きていてはいけない気がする、と思い詰めていた頃もあった。映画を撮っていることを免罪符にして、自分の欠点や過去の行いをごまかそうと必死だった。

でもその時は逆に、人に見てもらえるようなレベルの映画が撮れていなかった。別に今が素晴らしい映画を撮れている!なんてことはないが、そんな気持ちで撮っていた映画なんて誰が見たいと思うのだろう、という話だ。

 

 

人より歩みは遅いかもしれないが、ちょっとずつ自分の苦手を乗り越えて、今後も映画を撮っていきたいと思う。

大ヒットを飛ばす監督にはならないだろうが、七転八倒して回り道ばかりしてもんどり打って倒れてを繰り返してきた人間でも撮ることができちゃうんですよ、映画って。ね、懐が広いでしょう。と同じような思いをした人に伝えられるレベルにはなりたい。

これじゃどんなレベルかよく分からないな。本当はひとつ明確な基準が私の中にあるのだが、それはここで書くことでもない。

 

 

 

 

私には映画自体がコミュニケーションである、という思いがある。つまり上映して観てもらうという瞬間に、観客との間に新たな関係性が生じるから撮り続けたいのだ。

 

 

 

 

 

死ぬまで映画撮って、死んでもしばらく作品が残っているといいな。願わくば自分の知らないどこかで。

 

 

 

 

 

 

 

おまけ。

熱中できることがあることとか、推しがいることって幸せだよね。

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推しガラスペン。見た目がとにかく美しい、そして書き味が素晴らしいの!

とりあえず写真だけでも見て。いや、見れる機会があれば実物も手に取って。そしたら買っちゃうと思うけど。