『甲斐荘楠音の全貌』を観に東京ステーションギャラリーへ。
私はこの人の描く女性の肉感が大好きだ。西洋の裸婦なども肉感的だが、正直ピンとこないものが多い。それが人種が違うことによるものなのか、それとも別の理由かと自問自答していたところ、ひとつの解に行きついた。
処女性、神格化(というより聖母化か)、または逆に所有物化しているものは好きじゃないということだ。西洋の場合は宗教の影響が多少あるかもしれないが、とにかく西洋だから云々というよりも女性をどう見ているかということが、私にとっては重要らしい。
それはそうだ。現在の私は女として生きているのだから。
そういう持ち上げてしまった芸術よりも、そこいらに転がる渇望、畏怖や畏敬の念、性の猥雑な空気が見たい。それが人間だと思うから。
処女信仰なんてしょうもないと思っているし、男側から見て「手に入ったもの」を描かれても「ふーん(それ手に入ってないしキモいと思われてるよ?)」という感想になってしまう。
そんなものより、馬鹿みたいに肥大した欲望をぶつけている様とか、対象が得体の知れないものに見えてしまう恐怖とか、聖なるものじゃない性の交わりの方がよっぽど見ていて楽しい。
完全に好みの話なので逆のものが好きな人が居たっていいし、そういう絵画がすべからく駄作だとか批判してるわけではない。念のために書くけど。
それで、甲斐荘楠音に関しては明らかに私が求めている描き方なんだと思う。女性の体つきがあまり整っていない。むしろ、バランスの悪さに盛っている傾向がある。
さらに自分で女装をして資料を作ってまで描いており、ストレートに自分を投影したのか、ふくよかではないタイプの絵もあった。
これは本人の欲望を満たしながら描いたのかもしれないが、過去に「性別は揺らぐ、性別は感覚的」という時期があった私には、このやり方は単純に好ましいものに映った。
ぱっと見でとにかく美しいなぁという絵もあったのだが、それらは試行錯誤の上でそうせざるを得なかったように見えた。どうやら一般に受けなければいけない事情があったらしい。たぶんキャプションだかどこかに書いてあったが、詳細を忘れてしまった。
だが本人も美しく描くこと自体は嫌いではなかったんだろうか、煌びやかな作品群にも確かな吸引力があった。(...なんかこれだとダイソンっぽくて辛い、書き直さないけど)
本質的には『デロリ』であって、煌びやかな表現や上品かつ派手な映画衣裳など、あちらこちらと巡った結果、未完の大きな作品へと繋がっていったように思う。
デロリについては下記を参照のこと。
https://artscape.jp/museum/nmp/artscape/recom/9910/fukushima/kido.html
「絵画、演劇、映画を越境する個性」という展示のサブタイトルがついていたが、有り体に言えば性別も越境しているということなんだろう。本人が女装をしたからという意味ではなく、女性へのまなざし、別の性への興味という意味で。
もちろん越境できているかの判断は、観る方に委ねられているとは思う。境目を越えるということがどういうことなのか、この展示を観て改めて考えている。
それを考えることはとても大切なことである気がするのだ。(今の私にとって)
いろいろと書いたが、結局のところ私は生々しさを求めてしまうんだろう。特に絵画には。
手法は違えど、肉体や精神のおどろおどろしい感じが溢れ出てしまうものが好きだ。そういう感触がないと「信じられない」のだ。芸術において信じられるかどうかって、かなり大事だと思う。
蛇足だがミュージアムショップでお香を買った。香りものが好きなので流れるように買ってしまったが、これがとてもいい。
「肌香。匂いが溶けてゆく。流れる匂い。」という、甲斐荘楠音がスケッチブックに残した言葉から着想を得て作られたということだ。
焚くと粉感がある白檀の香りがして、残り香はほんのり甘い。絵画の中の女性から漂うような香りで、いい企画だと思った。
願わくばもっとデロリとした香りのお香も作って欲しい。不穏な香りのやつ。...それじゃ誰にも売れないか。ま、私は買うけどな。
おまけ。
昨日の昼から三食カレーでした。別になにも問題なかった。