それなり日記

映像作家、三宅美奈子の日記のようなものです。

飛び火

 

諏訪敦さんの個展を観に、府中市美術館まで行ってきた。

『眼窩裏の火事』という展示だ。

諏訪敦「眼窩裏の火事」 東京都府中市ホームページ

 

いわゆる写実絵画と言われるような作品だが、そもそも私は『写実』という言い方をあまり信じていない。もちろん区別・分類としての言葉があるのは分かっているが、絵画については「写実って言っても、作家の視点になった時点でその人だけの『写』であり『実』でしょ」と思ってしまう。

「他人と全く同じものが見える」ことは、まず人間ではあり得ない。

 

『リアルな演技』という言葉もそれに近い感想を持つし、ドキュメンタリーに関しても人間が撮って編集して、というような作業がある限り「リアルとは、そこにある事実とはなんなのか」という気持ちになる。

もちろんこれは俳優や作品を否定しているわけではない。私個人が『リアルとは』ということを問い続けて創作したい、と考えているという話だ。

 

 

それで、諏訪敦さんの絵画だ。

名前を知ったのはわりと最近だった。そしてWEBや誌面で見る限りは絶対に私が好きな絵だ、と確信していた。

写実的な技法というのはさて置き、私はそれ以外の『絵の匂い』に惹かれた。それは色使いであったり、描くモチーフの選択であったり、いろいろな要素が絡み合って出てきたものだと思うが、とにかく目の前で見たいという衝動に駆られた。

 

 

観に行ったのは平日の昼間、どん曇りの日だった。

東府中から15分ほど歩いて美術館に着き、2階にあがる。府中市美術館はかなり昔に訪れたことがあったが、なんだか印象が違った。ずいぶん明るい気がする。かなり硬質な、まっすぐな明るさというか。

昔は私の気持ちの方が暗かっただけかもしれない。そんなことを思いながら、入り口から右手の展示室に入った。

 

ここの部屋は『棄民』のシリーズだった。

昨年行った鴨居玲展で『廃兵』についての言葉を読んだのだが、なんとなくそれを思い出しながら『棄てられた人』の絵を全体的に眺めた。

わりとシンプルな展示の仕方だなぁと思ったのだが、特徴としては真ん中のスクリーンだ。絵画を重ねるようにした映像が流れている。この映像に映る人物の手元が気になり、しばらく眺めた。私には何故か息を吹き返しそうに見えた。

 

さらに『依代』という作品を見ながら、作者独特の閃輝暗点を表現した部分なのかは分からないが、人魂みたいなものが描かれているな、などと思っていた時だ。照明が変わった。ふわっと明るくなったりする。

気のせいかと思ったのだが、やはり何度か変わった。たぶんスクリーンがあるせいなのだろう。でもその浮遊感があの空間には合っていた。

(ここまで書いて私の勘違いだったらどうしよう。私は光が変わってキョロキョロしてしまったのだが、他の人は普通にしていた気もする)

変わる光は閃輝暗点っぽくもあった。私はその症状は出たことがない。だが、目の前に星のような光がチカチカすることはしょっちゅうある。それをそのまま映像を作る時に入れてみたら観客はイライラするだろうな、などと考えながら移動した。

 

次の部屋は静物画が展示されていた。

ここの展示方法はとても『演出』が入ったものだった。どの空間にも演出はあったのだが、ここが一番人の手と意図を感じた。

先程の空間はグレーという雰囲気だったが、こちらは黒。細かいことは書かないので、ぜひ体験しに行って欲しいなと思う。あと数日しかないのだが。

モチーフとしてはとにかく豆腐が最高だった。

 

 

最後の『わたしたちはふたたびであうであろう』という章の部屋へ。ここの空間は白いな、まぶしいな、という印象だった。(前の部屋との差もあると思う)

最初に小さめの絵を見ながら進んでいくのだが、奥に行くにつれて空間が狭まっていくのが印象的だった。突き当たりには『Solaris』という作品があり、惑星ソラリスは(というかタルコフスキーが)好きなので、単純にウキウキした。

 

だがその手前にあった、あるジャーナリストの女性の絵のところで足が動かなくなってしまった。笑っているとも取れる表情だが、どちらかというと困惑しているように見える。目元の皺など細かい描写がとても人間的なのに、温もりを感じるかと言えばそうでもない。

これは彼女が戦地に赴いて亡くなられた後に描かれたものだからか、と目録の文章を読んで気がついた。生きている人間を描くときにこういう絵にはならない気がする。もちろん私の勝手な印象・憶測に過ぎず、作家が本当のところ何を思って描いたかは分からない。

ただ、その人の背負っていたものが自分とは違いすぎる気がして、作家の目を通して描かれたその表情をどう受け取ればいいのか、ずっと考えていた。

 

 

あまり立ち止まっているわけにもいかず、最後の部屋に入った。

そこは縦に空間が広がっている感じだった。両サイドにある大きな絵のせいだろう。

ここでも私はある絵の前で立ち止まってしまった。川口隆夫氏が踊っている、告知のポスターなどにも使われている絵だ。

最初は「これかぁ、これが見たかったんだよな」と思っているだけだったのだが、幾重にも描かれた肉体の軌跡を見ているうちに、足が固まってしまった。

踊っている絵を見ているのに、こちらは足がボンドで地面にくっついたみたいになってしまったのだ。

 

単純に大きくてある種の迫力もあるから、というだけではないなにか。それはなんだろうと考えながら、手や顔などのパーツを見つめた。

川口氏だけではなく大野一雄氏の踊り、そしてそれを見つめてきた作家の視線、それらが重なり合って膨大な情報量とエネルギーになっている気がする。

荒っぽく爆発するような技法ではなく、静かであり時に冷徹な印象すら受ける筆運びだから、よりそのように感じられるのだろうか。

写実というのは対象を見つめ続けなければならない。自分の中にある感情を直接的に吐露するような技法とは少し違うんだろう。しかも諏訪氏の場合は取材量も圧倒的らしい。

 

対象に関する情報があり、それを見つめる作家の目があり、対象が放つエネルギーそのものがあり、さらにそれらに付随する時間の蓄積があり、私ひとりでは到底体験することがないような膨大なエネルギーがそこに凝縮されている。

私は久々に雷に撃たれたようにダメージを受けた。

 

 

疲れ切って展示室を出た。

ダメージを受けたと書いたが、私は好んで疲弊しに美術館に行っている。疲弊するのが分かっていると行くのに気合が必要になるのだが、その後にやってくる感覚が好きだからだ。

心身ともにぼわーっとして、膨張していく感じと言えばいいのだろうか。水に浮いているような、もしくは砂に沈み込んでいくような、覆われて自分の境目が曖昧になる感じ。怖い気もするのだが、身を任せてしまえば気持ちがいい。

好んで登山やマラソンをする人にちょっと近いのではないだろうか。(と言っても両方やらないので、めちゃくちゃ的外れなことを言っていたらすみません)

 

 

今も思い出しながら、ちょっと疲れている。

私は美術系の専門に行った割には知識もないし、絵がうまいということもない。だが好きなものを目の前にした時に受ける感覚や感情、それらは私の養分になっている。間違いなく。

こうやって、明日もまた生きていけるなぁと思うのだ。大袈裟ではなく本当にそう思っている。だからこういう展示を産み出す作家やキュレーターや、関わる人々には感謝しかない。

 

今はそれらを養分にしながら、自分は次に何を作ろうかと考えている。

 

 

 

 

 

おまけ。

三度の飯より、って書いたけど展示の後はご飯食べたよ。

コラボメニューの薬膳火鍋、美味しかったな。