書こうと思いながら忘れていたが、4月の頭に東京都美術館で開催されていた『レオポルド美術館 エゴン・シーレ展』を観に行った。
シーレは好きなので観に行くという一択ではあったが、展示の内容はちょっと微妙だった。もちろん本物が観れるのは嬉しいし、図録だって買って帰ってきたのだが。
シーレに関してはもっと観たい絵があったということ、他の作家の紹介が多くて構成がなんとなく散漫な感じがしてしまい、結局何を観たんだろうなぁと思ってしまった。(ココシュカは好きだから観れて嬉しかったけど)
端的に言うと、シーレの絵をあまり知らずに来て「これがシーレか」って思う人がいたら「いや、もっとすごいのあると思う」と食い気味に伝えたくなってしまう感じだ。(有名な絵を呼べないほど、予算や力がないという日本の衰退っぷりもあるんだろうか、もしかして。仮にそうだとしたら辛すぎるな)
別に展示の文句をたれたいのではない。何度も言うが、シーレを観れたこと自体はありがたいし、有名な絵だけが全てということもない。
だがここのところ、美術展も入場料が高くなっているし(少なくともシーレ展は映画よりも高い2200円だ)併せて図録も買うとなかなかのお値段ではある。そうなるとどうしても満足度は気になってしまう。
とはいえ個人の財布事情から満足度が気になるというだけで、料金自体が高くなることは昨今の流れから仕方がない。むしろ現場の人たちはそこまで金銭的に潤っているとも思えないし、きちんと還元できるような料金設定にして欲しい。
だから私は行ける展示には他の部分を削ってでも積極的に行く。そうしないと「続いていかない」からだ。
だが値段が上がって文化芸術を鑑賞することが「金持ちのためだけの道楽」になりつつあるとしたら、なかなかの末期症状であり、たぶん世界的にそういう方に向かっている。(昔からそう言う側面があったことは否定しないが、体感的に今ほどではなかった)
私がそういうことを憂いたところでその流れがいきなり変わることはないし、そもそも私だって恵まれている側だという自覚はある。
でもぱっと何かできなくても、考えることをやめてはまずいな、と思っている。
好きな作家の話に戻る。
ホルスト・ヤンセンという作家が好きだ。シーレと違って有名ではないが、シーレを好きな人はだいたいこの作家も好きだと思う。
手に入りやすいのは下記の書籍くらいか。
シーレもそうなのだが、ヤンセンの描く線が好きである。細い線の強靭さに狂気を感じる。むしろ狂気しかないかもしれない。私は「何を感じているんだ、この人は」という怖い線が好きなんだろう。
たぶん嫌いな人はめちゃくちゃ嫌いな類の画家だ。シーレですら嫌いな人がいるんだから。ちなみにうちの人はシーレの風景画以外は気持ち悪い、と一刀両断だった。
なぜ気持ち悪いかって、当たり前に見えるような描き方をしていないからだ。人間の身体を自在に動かして、なんなら負の精神性を前面に出しているから、ぱっと見は気持ちが悪い。(私はそこにエロスを感じるタイプだが、少数派なのかもしれない)
だが、それを言ったら浮世絵だって見えたままの形を描いておらず、立体感は押しつぶされている。
モネなんて目が悪い人が描いているみたいに輪郭がなく(これは悪口じゃない、オランジュリー美術館に行くくらいは好きだ)写実的なフェルメールだって光と影の表現に関して、実際には見えるはずのない顔料の粒や筆跡を用いて表現している。
絵なんて「見えないもの」を描いてなんぼなのではないか。
蛇足だがBUMP OF CHICKENが『見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ』と歌った時、私は「それが人生の真理だよね」とか思って感動した。その曲しか知らないのだが。
人はいつだって見えないものを見ようとし、見えないものを見えるように表現しようと躍起になる。
見えないものは怖い、見えないものは淫靡、見えないものには魔力があり、見えないからといって存在しないことにはならない。
もちろん怖いからそれを嫌がるのか、興味を持ってそこに突き進むのか、それはその人の好みなので良し悪しではない。
でも仮に全てのものが「見えて」しまったら、この世はとてもつまらない、空き箱の中みたいなただの空虚になる。
これだけは好みに関わらず、事実だと思っている。
私は見えないものがたくさんある世界で、それらを想像力逞しく見ようとして、望遠鏡というよりはカメラを覗き込んだりしながら遊んで表現して楽しく死んでいきたい。
おまけ。
友人にもらったマッターホーンのサブレを食べながら『悲しみを聴く石』を一気に読んで、打ちのめされた1日でした。あ、サブレはもちろん美味しかったです。