先日、親戚がお坊さんになったと聞いた。
聞いた時に、なんでまた急に?と思ったのだが、こっちが特に知らされていなかっただけで準備した末のことなんだろう。
お坊さんになるための詳しい段取りが分からないのだが、それなりに修行をするはずだし、生活する上での何か決まりがあるのかもしれない。
私より年齢が上の親戚なのだが、お坊さんとして生きると決めるタイミングがふと訪れたんだろうか。機会があれば訊いてみたいが、そんなことをズケズケ訊くのも失礼か。
私は神様仏様に関してはあまり興味がない。そのものにではなく、自分が信仰するということに興味がない。
信仰に近い感情を実在の人物に持ったことも限りなくゼロに近い。
家族をありがたいと思うことはあれど絶対だと思ったことはないし、学校の先生は軒並み嫌いだった。
好きな映画監督や芸術家を追いかけることは信仰に近いのかもしれないが、盲信することを無意識に避けるので逆に粗探しをしていることが多い。
なんかすごい嫌なやつだな。粗探しとか。でもそうすることで「同じ人間だな」って思うんだよ。
私は単純に自分が「信仰している状態」が好きじゃないんだろう。自分というものを失うような怖さがあるのかもしれない。
ふと思い出したのだが、小学生の時に写経をしたことがあった。たぶん漫画かなにかの影響だったと思う。とにかくたいした理由もなく写経をした。
ところが、これがなかなか面白かった。そもそも文字を書くという行為が好きな私にはうってつけだった。集中して書くと我を忘れるし、ある程度書けると達成感もある。
なんだか分からないが、急に気持ちが晴れやかになっていたのだ。
でも、この写経をもし親に見つかったらなんだと思われるんだろう、と怖くなって習慣にはしなかった。
パッと見は呪いの紙にしか見えない。よく見て写経だと分かったにしても、将来を心配されかねない。
信仰心はさておき、写経の心地よさは幼いながらに分かっていたらしい。
神様仏様を信じるというと曖昧に聞こえがちだが、本来はそういう修行をすることで心の安寧を得るのが目的なのだ。自分の心を掴む、というか。
親戚の心中は分からないのだが、お坊さんになることでそこにひとつの芯のような、輪郭のようなものが発生したんだろうか。
相変わらず文字を書くのが好きな私は、それを信仰して生きようかなと思う。何を書くか、ではなく書いているという行為自体を信じるということ。
案外そういう簡単な行為を信じるってことが、自分の大枠さえも信じられるようになるキッカケだったりするんだよな。
それは自分を見失うのとは真逆だなと思うので、むやみやたらに信仰を怖がるのはやめようと思う。
おまけ。
私が信じているハンドクリーム載せておきますね。寒くなってきましたし。
宇野千代先生も使ってたんでしょ、オリーブ。