それなり日記

映像作家、三宅美奈子の日記のようなものです。

見えなくてもそこに居る

 

 

釜茹での刑、みたいな暑さなので今日は家にいることにした。夏生まれだし暑いのは平気な方だと思うが、この暑さは生命に関わる。

そろそろ人類は滅びるんじゃないか。なんかAIも爆速で進化しているし。人間はもう進化・適応できないのでは。あれ、適応できなさそうなのは私だけですか。

 

 

この記事のタイトル、暑いから幽霊の話を書こうとしているのではない。映画の話だ。

 

家にこもって長編脚本を書いている。結構前から書いているのに完結させられていない。全体像は見えているのに温め過ぎである。いつ孵化するんだい。

 

 

その企画では自分が「今、観たい映画」を書いている。参考までにと、最近の邦画で似たような作品を検索したがほとんど見つからない。そのうちあまりにも無さ過ぎて、イライラしてきた。海外の作品にはあるのに日本には無いのだ。

そりゃ被らないんだったら企画する甲斐はあるが、あまりにも参考になりそうな作品がないのはどうなんだ。

 

なんでこんなに苛立つのか、よくよく立ち止まって考えてみた。

私は別に突拍子もない企画を立てた訳ではない。むしろすぐ隣に居るであろう人たちの話を書いている。なのに該当する作品が少なすぎると「その人たちが居ないことにされている」感じがするのだ。現実には存在するのに、だ。

 

 

近年、邦画を観ている時に「居るはずの人が居ない」と感じることが増えた。ある属性の人にフォーカスするのは構わないし、書きたい話や主人公に準じて作られるのは当たり前なのだが、「フレームの外の世界」が見えない映画が体感として増えたのだ。

テーマやストーリーがどうとか、画面に映っている映っていない、の問題ではなく。

 

映画は映画でしょ、というのは当たり前だ。現実と混同している訳じゃない。

でも映画はスクリーンに映っていないものの気配を感じさせてくれたり、映画館から出た時に現実に引き戻されつつ何かが変わって見えたりすることがある。その現実が地続きで広がりのある感じ、それがある映画とない映画では満足度が全然違う。

 

私はそういう映画を観たいし、作ってみたい。それには特定の属性の人々に対する共感やエモさ、だけでは足りないと感じている。

多くの観客を感情移入させるには共感しやすいところにグッとフォーカスするのが得策かもしれないが、どちらかというとそこからはみ出してしまう人にこそ、映画が必要なのではと思ってしまう。

 

だから居ないことにされがちな人を主軸にした映画を作りたいし、仮に主軸にはならない映画でも外の世界には居る、と感じられるように撮りたい。

 

 

ま、この辺は単に私の考え方が変わったせいもあるんだろうな。昔は好きだった映画でも、見直すとなんか違うなと思う作品も結構ある。もちろん逆パターンの作品も増えた。

さすがに歳を喰って経験値も増え、多少の知識も増えた今は映画に求めるものが変わってもおかしくない。

 

最近の邦画はつまらん!という話ではない。そもそも私は映画を撮りたい側の人間なので、きちんと劇場公開されている映画というだけで凄いことだなと思っている。

私もそちら側に行って撮りたいものがあるんだよな、という話だ。

 

 

 

 

 

タブーに切り込むとかセンセーショナルな飛び道具を使う前に、自分にだけ撮れる映画がある気がしている。

……そういう確信を持たないと二十数年も自主映画なんて撮っていられないのですよ。

 

 

 

 

 

おまけ。

お香を焚きながら作業。その後に日清の焼きそばU.F.O.を食す。匂いがカオス。窓を開けて換気扇を回す。が、熱風が吹き込む。暑い。もう自分が何をしたいのか分からない。

でも確実に言えることは、お香はいい匂いだしU.F.O.は美味い。

それはそれ、これはこれ、として受け入れます。

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