前回、幽霊の話ではなく映画の話を書いた。
でもこの前、某コンペに出した中編脚本は幽霊が出てくる話にした。
のっけからなんのことやら、という感じではあるが「見えないものをガッツリ見せる」脚本を書いたなぁ、っていう話。
幽霊の映画と言えば、私は黒沢清監督の作品が好きだ。しっかりとホラーな作品もあるし、そうでないものもあるけども。
私の中で「世界のクロサワ」は「キヨシ」だ。
黒沢監督の『降霊』という作品がある。この作品に出てくる幽霊が「リアルだ」と話題になったことがあった。何をもってしてリアルなのか。複数の意味でリアルじゃないものに何を言っているんだ、と思うけれども。
要は幽霊が見えてしまう人が「こういう見え方するする〜!」って頷いちゃうらしい。
窓辺に立っている幽霊がリアルだったということだが、それはただ人の写真を窓に貼って撮影しただけのシーンだそうで。それって立体感もなくペラペラな訳だ。その事実がなんとも言えず面白い。
リアル幽霊、ペラッペラ説。二次元と三次元の人物、という混在が違和感となる。それに、ぼやけた顔も怖さを誘発している。
リアルってことは、黒沢監督は見える人への取材を慎重に重ねたということなのだろうか。
まさかのご本人が見えてしまう方なのか?
そうそう、この『降霊』に関するツイート群に出てくる『コティングリー妖精事件』って、とても興味深いんだよね。
コナン・ドイルが捏造された妖精の写真を「本物だ!」って言ったらしいけど、構造が同じかと。彼は「見える」人だったとしか思えない。
未見の人は『降霊』と同時に『ドッペルゲンガー』も見て欲しい。こちらはホラーかと思いきやコメディ?!ってなる映画だけれども。
黒沢監督のそういうところが好きなんだ。へんちくりんな映画ばかり撮っている。
そして幽霊が出てくる脚本を書いた私だが、実際に幽霊を見たことはない。かと言って「幽霊はいない!」とも思っていない。たぶんいるんでしょう、それもゴロゴロとそこら中に。
私は人間なんかが想像できない、理解し得ない事象っていくらでもあると思っている。だって、たかが人間なんだよ。たかが、ですよ本当に。
人間が「幽霊と定義する」ものは物質的に存在すると思う。
でも仮に人間がそれを認識できるとしたら「脳がバグってる」ということなんじゃないか。普段使わないところが活性化したり違う回路に接続される、みたいな。
幽霊を見たことはないが、変な気配を感じる取ることがある。引っ越しで内見したら空気が澱んでいて良くないな、とか。パワースポット行ったらすごい頭痛に襲われたり、逆にずっといい匂いがして気分が上がる、とか。
ある時期、地下鉄大手町駅の乗り換えをすると耳鳴りや吐き気がするので避けていたら、「平将門の祟りじゃないか」って知人に言われたことがある。
確かに大手町に首塚があるけども。なんで私が平将門に祟られなきゃいかんのですか。
あと某所で空気が重くて気分が良くない、と話したら「近くに屠殺場があるから」って言われたことも。
いやいや、私は動物の怨念か何かを感じ取ってるの?めっちゃお肉食べてるのに。
学生の頃はドアをノックする音が聞こえたので返事をしたら誰もいない、っていうのがよくあった。ノックじゃなくてちゃんと名前を呼ばれたこともあったな。
……これは単に病気を疑うべきだったのでは。
あまりこういうことを言っていると嫌厭されそうなので、もうやめておこう。なんか痛い感じがする。
「全て脳のバグである」って思って生きるとなんでも楽しくなる気がする。理解できない事象をイチイチ否定して、得体の知れないものとして捉えるから怖くなる。
幽霊の存在に限らず、人間関係だってそうなんじゃないか。
もちろん「怖がることを自体を楽しむ」というエンタメもあるんだけどね。
よし、俳句の季語「稲川淳二」の映像でも見るか。
おまけ。
黒沢監督がごはんについて語るインタビューを読んだ。『大人ごはん 4号』は読みがいのある雑誌なのでオススメ。
推しの監督が普段の食事について語っているのは本当に興味深い。映像のことももちろんだが、こういう何気ない話も読みたい。
推し、とか。巨匠の監督に何を。でも顔などの全体的なビジュアルも含めて推し、と言うのが正直なところ。
ここに来て顔の話するのか、っていうね。どうかと思うよね。