それなり日記

映像作家、三宅美奈子の日記のようなものです。

細胞ガチンコ対決

 

文芸誌ってのは場所を取る。

私は好きな作家の場合、単行本化を待たずに文芸誌で買うことがある。いち早く読めるのは良いのだが、とにかく保管場所に困っている。小説家でも出版関係者でもないくせに、山積みだ。

 

しかし今月はそんなことも言っていられなかった。

文藝に山下紘加『煩悩』が掲載されるため、何がなんでも発売日に買わねばならなかった。かなりの使命感だが、過去作も読んできているので絶対的な信頼感しかない。面白いに決まってる。

しかもタイトルよ。この豪速球なタイトル。好きだ。

 

以下、特にネタバレはしていないと思うが、改めてあらすじを書くこともしないのでご了承を。そして相変わらず私の経験に基づく勝手な話をする。愉快な話ではないかもしれない。

とにかく、この記事をご覧になった方は『煩悩』を必ずお読みください。必ずだよ!約束だよ!

 

 

 

本屋で購入してすぐ、バス待ちをしながらベンチで読み始めた。書き出しが良すぎて悶える。

小説は「ストーリーが面白い」とか「文章の美しさが半端ない」とか「自分にも覚えがあって入り込める」とかいろいろな理由で好きになる。山下紘加の場合は「脳が誤作動するくらい感覚表現が的確」という部分が突出している。

文章を読むと、皮膚感だとか内臓の動きだとか、そういう体の芯の部分にスイッチが入る。小説を読んでいるんだか、自分がその中に紛れ込んでしまったんだか、もう体・脳味噌の乗っ取りである。

 

『煩悩』のストーリー、主人公の涼子と友人の安奈の関係性については身に覚えがあるので、新鮮!という訳ではなかった。

私は過去に、これに近い経験を数回している。そして私は語り手の涼子ではなく安奈側の立ち位置だった。

私から見ると彼女らは、勝手に何かを期待して私という人物像を作り上げ、そしてなぜか下に見て、こちらが珍しく反論や確固たる意志を持って行動すると『そんな人だと思わなかった』と責任を負わせて逃げる人たちだった。

 

そう、だいたい逃げてしまう。こちらが謝り、しかし思ったことは伝え、その上できちんとした関係修復を願いでても逃げる。そもそも彼女らは、私の話はあまり聞いていないし、事情や気持ちも決めつけるだけで深く考えていないように見えた。自分のことは大切にしろと押し付けてくるくせに、だ。

そして私は匙を投げ、二度と会うことはなくなる。大切だと思っていた感情は一瞬にして冷める。憎悪にすら変わらず、むしろ哀れみを感じるようになる。

彼女らは何を守りたかったんだろう。そんなやり方で関係性を捨てるのなら、なぜ今まであんなに執着してきたのだろうか?と私には分からなかった。

 

でも最近は彼女たちのことが、なんとなく分かるようになった。おそらく本当に傷ついていたんだと思う。

私が態度なり言葉なりで直接的に傷をつけたという部分もあるんだろうが、いつの間にか曖昧になったお互いの細胞の境界線を、私が急に引いたことが決定打となったように思う。彼女たちは突然のことに驚き、線を認識することに拒絶反応を示す。実は元からあった線なのに。

 

 

これって「浸透圧」みたいな関係だな、と思った。

『煩悩』は一見、涼子が安奈を侵しているように読める小説だ。だが、逆だ。

浸透圧は溶液の濃度を一定にしようとする。目を真水で洗うと痛いのは浸透圧のせいだ。真水のように、浸透圧が低い安奈の分子は涼子に流れ込む。そして涼子に流れ込んだ分子により細胞が膨張していくため、彼女は伴う痛みに耐えられない。

しかし最初から濃度が同じであれば、そもそも移動しない。そこには何も、何の関係性も発生しない。濃度は安定しているが交わることがない。

どちらが幸せなんだろうか。強烈な痛みを伴いながらも関わっていくことを選ぶ人間は、どれだけ居るのだろう。私は痛くも痒くもない関係は必要だと思っているが、それだけでは生きていけないと知っている。

その痛みを伴う関係性が、側から見たら不健康だろうが病的だろうが歪んでようが、細胞が溶け合うような恍惚を感じる限りは逃れられないんだろう。一度でもそういう気持ちになったが最後、忘れることはできない。

 

さらに言うと「手に入らなかったもの」はより一層、求めることになる。

涼子は安奈を手に入れられなかった。唯一信じられるであろう感情をあえて欺き、信用できない自分の感情をあえて信じた。それは痛みに耐えられなかったからなのかもしれないし、先に待ち受けるより大きな痛みを回避しようとしたのかもしれない。なんにせよ、涼子の思いは形を変えて、安奈を求め続ける気がしてならない。

 

『煩悩』の最後の一文を読み終わった私は、ぐったりとしながら「恍惚」を味わった。とても疲れたが、最高の疲労感だった。私はマラソンや登山を趣味とする人の気持ちがよく分からないのだが、こういう読書後の疲労感に近いものを味わっているのだとしたら、そりゃあ虜になるよなと気がついた。

 

 

と、ここまで欲まみれの話をしてきたが、私は「人そのもの」に執着することが少ない。私が希求するもの、それは五感に訴えるものなので、その人間が持つ外見や思想や立ち振る舞いに固執することがほとんどない。

欲しいのは体温や匂いや皮膚感であって、相手に捧げたいのもそれだ。そこに発生する感情の意味や関係を定義する言葉、社会的な意味などはその後からついて来るだけ。

 

こういうことを書くと感覚や感情だけで生きてるんじゃないよ動物かよ、ってヤジが飛んできそうだが、その通りなのである。

もちろん私はこの世界で社会生活を営んでいるので、一定の人間らしい振る舞いはする。そして趣味が合う人だとか価値観がぴったりくる人だとか、それはそれで一緒にいて楽しいし、そこから友情や愛情を育むことは多々ある。

だがそれと、その人間への「欲」は別だ。どうしても抗うことができない欲というのは存在する。私は相手を庇護することで、配下に置くことで、その欲を手に入れようとは考えない。そこが涼子とは違うなと感じる。

 

私は涼子よりも卑劣なんだと思う。だから相手の身体と思考を自由にさせながら、好きな時に好きなだけ感覚だけを求め、もっとも深い部分だけは触れさせない。そういう手法を取ってきたことに、今更ながら気がついた。

私にひどい言葉を投げつけてきた、ひどい行いをしてきた彼女たちは、どうにかして私の深部に痕を残したかったのかもしれない。傲慢な考え方かもしれないが、そうとしか思えない出来事がいくつもあったのは確かだ。

 

そう考えると涼子って真摯で可愛い。安奈への欲がブレない。煩悩に身を捧げ、傷つきながら血をたれ流して足掻いている獣感。可愛い。めちゃくちゃ可愛いじゃないか。(なんかこういう書き方をしてしまうとサディストっぽいな)

関係性が変わり眼差しが変わり、めちゃくちゃ傷ついている自分に気がついてなお、安奈のことを思い出してしまう涼子、ただの素直だよ。好き。

 

 

まぁでも、だ。私の経験になぞらえて語ったところで、諸々は私の勝手な解釈だ。他の読者や書いた本人は「全然違うけど?」って思う確率の方が高い気もする。だからこのように記事にし、公開することは少し怖い。

 

だけど、どうしたってこれは私の物語であり、私が侵された小説であり、私が過去に侵入してしまった話だ。前にも書いたが文学なんて個人的なものなので、自分が「これは私の物語だ!」と思ったのなら、最終的にはそれでいい。

私はそう思わせてくれる力強い小説に出会えたこと、そこに感謝すればいいと思っている。(誤読は避ける努力をしているけどね、それでも自分に引き寄せちゃう癖ね)

 

 

 

 

 

 

何が言いたいかっていうと、山下紘加は最高だ。この一点だけ理解してもらえたら、記事を書いた意味がある。もうそれだけでいいや。

 

 

 

 

おまけ。

きっしょい文章書いてんじゃないよ、と自分で思ったけど私の生き方がきしょいんだった。仕方ないね、抗えなかったね。どうでもいいけど「きしょい」って言葉、変だわ。

 

www.vatican-exorcist.jp

これ観たんだけど、スクーターに乗ってるラッセル・クロウ、いいキャラしてたわ。実在したエクソシストの話。でもそんなに怖いということはなく、バディものでした。相方の成長っぷりも面白かったなー。