文学なんて個人的なものです。
文フリ、後編である。
4人揃った我々は、しばらくタリーズでしゃべりつつ、会場入り口の混雑が緩和するのを待った。開場30分ほど経った頃に入り口までゾロゾロと行ってみると、一応スムーズに入れるものの、なかなかの人混みである。
世の中にこんなに文学好きがいるのか…みんな癖ありなんだろうな、遠征組も居るだろうし、それなりのお金が使われているんだな、というか私の予算足りるんだろうか?と思いながら、まず田畑書店さんのブースへ。
田畑書店さんはポケットアンソロジーというものを出していて、少しずつ集めて自分で編むのが楽しい。
これを一冊、誰かにプレゼントというのも良い。分厚い本は渡しにくいかな、という相手にうってつけ。渡す方も受け取る方も気楽である。
ここではまず短歌アンソロジーを購入。
小島なお、初谷むい、東直子、平岡直子、山崎聡子という豪華な執筆陣。もう全員好きだよ、最高か!
その後は山崎ナオコーラさんの書評集を買ってサインを書いてもらい!Zさんオススメの小津夜景『いつかたこぶねになる日』を買い!(こちらもサイン本だった)
順調にお金がなくなってゆく。なんだこのイベントは。いくらあっても足りないのでは。
ところで、汗だくで売っている方たちがいて、真夏かと錯覚した。まだ5月ですよ?会場内に空調があまり効かないゾーンがあり、そこにいる人たちは大変そうだった。
かくいう私も汗だくになっていた。薄着にしたつもりだったが、タンクトップに長袖のシャツでもキツイ。いつもの友人とPさんに至っては(二の腕を触り合っていたことからも分かる通り)袖がない服を着ていたが、それでも暑そうである。
人の熱気って、本当にすごいんだな。
私は一応マップを見ながら歩いていたが、いつもの友人とPさんは放棄していた気がする。(Zさんは途中で別れ、自分の行きたいブースを巡っていた)
マップ見てるからって私についてきたらダメですよ、基本地図とか読めないんだから。などと思いながらバクラヴァの本を買ったり、また短歌の本『胎動短歌』を買ったりした。佐々木ののかさんや大阿久佳乃さんのコラムが載っている『B面の歌を聞け』も買うことができた。
これは美味しいバクラヴァ。
あと絶対手に入れたかった、オルタナ旧市街『ハーフ・フィクション』も無事に購入。オルタナ旧市街さんはいつも装幀がキラキラしている。かわいくて撫でたくなる。というか、気がついたら撫でている。
もちろん中身だって良いのだ。小説のような、日記のようなエッセイのような文章。現実と夢がうねうね混ざったような世界で、共感してみたり驚いてみたりしてしまう。匂いや手触りにニンマリしたりね。
あと小島なおさんがいらっしゃっていて、サインをいただいた。まさかご本人にお会いできるとは感無量...。ちなみにお母様の小島ゆかりさんの短歌も大好き。
長らく手に入り難かった『乱反射』を書肆侃侃房が出してくれたのだよ。私が買った時は高騰してましてね。あまり高いのは腹が立つから、必死で安いの探したけど。ネットで探しまくって、結局BOOKOFFの店頭にあってビックリした思い出。
なんだかんだ、いつもの友人も着実にお金を使っているようだった。Pさんも買ってはいるが、堅実に使っているように見えた。そう、私といつもの友人はすぐにお金を使う、浪費家である。
良い言い方をすれば、趣味に全部注ぎ込むタイプだ。根っからのオタクなのだ。(良い言い方になっていない?)Pさんはその辺り、冷静になれる人に見えた。というかそれが当たり前の大人かもしれない。
ひとまず3人の行きたいブースは回りきった!しかしまだ第二会場があるのだ。恐るべしだな、文フリよ。そちらは第一会場よりは狭そうだし、目当ても少ないのだが行ってみることにした。
するとなんだか、客層が変わった気がする。雰囲気が何か違う。
何故なのか気になりながら、私のお目当てのブースを探して歩いたが...ない。そんなブースがないのだ。どう考えても通り過ぎているので戻ってみたところ、店じまいをしていた。何冊売れていくら、みたいな計算をする声が聞こえた。
この日始めての敗北。第一会場を優先したから仕方ない。
ちなみにその本は、文フリ後の通販で買えた。『奇書が読みたいアライさんの変な本ガイド』である。そうなのだ、私は奇書が好きなんだ。奇怪で愉快なものが好きなんだ。
で、なんで第二会場の雰囲気が違うのかというと、もっとコアだった。というより18禁も可と言うべきか。官能やらなにやらがやたら目につく。
しかしぱっと見、まったくそそられなかった。私が思う官能とは谷崎潤一郎のサディスティックな陰翳のある文章の凄みとか、山田詠美の実存迫力肉弾戦(肉弾戦には精神が塊になってぶつかり合うことも含む)とか、中上健次の土着えぐみベタベタ増し増しとかであって...とにかくその辺でもう満足してしまったのかもしれない。申し訳ないが、この3人を超えてくれないと官能とは言えん!
なんかアホみたいに興奮してしまったが、もちろん異論は認める。私の好みの話なので。
でも官能とはなにか考えるのは楽しいのは分かるな。一番難しいジャンルという気がするが、とても挑戦しがいがあるんだろう。
とにかくそういう理由で、第一会場のオープンマインドな空気に比べたら独特だったのかもしれない。
なんとなくふわーっと会場をまわり、クルミドコーヒーにて飲み物を飲むことにした。
暑いからアイスコーヒー...と思ったが、自家製ジンジャーサイダー(確か)があった。それを口に出したところ「うわー、すぐそういうの行こうとする」的なことをいつもの友人に言われた。
そうなのである、初手で変わり種を頼む癖。この前クッキーをあげた時には「美味しいけど、美奈子の味がする」と言われた。ちなみに何味かと言うとブラックペッパー&ローズマリーである。おつまみクッキーだ。そうだな、美奈子味で間違っていないな。
そう、コーヒーの店なんだからコーヒーにすればいいんだ!と心の中で決めて、いつもの友人とPさんの方を見ると「アイスコーヒー!」とユニゾンで答えてくれた。仲良しだな。
アイスコーヒーを堪能しながら第二会場をあとにし、Zさんを待つことにする。待っている間、買った本を整理した。予算は使い切りましたね。
いつもの友人が壁に手を当てて話しながらストレッチを始める。自由だ。そしてそれを写真におさめるPさん。そこに映ったのはヒーリングとか言って手からなんか出してきそうな表情のいつもの友人。自分で宗教家と言ってました。いつもながら、表情が豊かでいいですな。
そしてZさんが無事に合流し、我々はぼちぼち帰ることにした。この時、14時半くらいだったか。再び混み合う流通センター駅...。
電車に乗って帰りながら、Zさんに3人ともadidasの白いスタンスミスを履いていることを指摘された。まぁ歩き回りますしね。スタンスミス、何にでも合うしね。私は普段からスタンスミスとコンバースばかりです。
最終的に、新宿にたどり着いて女3人でタピオカを飲みました。なぜだ。久々に飲んだけど美味しかったな。
ここでもちゃんとスタンダードな飲み物を飲んだ。鉄観音ラテの黒糖タピオカだったと思う…。タピオカのお店自体たくさんあるし、メニューも豊富だから分からなくなる。ま、ラテにしておけば間違いないんだ。
カロリーは考えたくないやつだけど。ご飯一膳は超えてくるので。
そんな感じの一日だったが、あまり文学について書けてない。日記だから別にいいか。
また文フリには参加してみたい。願わくば、会場が暑くも寒くもないといいんだが。
おまけ。
暑くなってきたので、赤坂青野の冷やしみたらしが食べたいです。
ネット予約の6月分、売り切れてますけど。ちなみにこちら、タピオカ粉入ってるそうです。
三人寄れば四人目が来る
前から気になっていた文学フリマというものに行ってみた。
いわゆるコミケの小説版、ZINEなどを作家さんが手売りする大きなイベントである。最近盛り上がりを見せているなぁと思っていたのだが、コロナ禍というのも手伝ってなかなか行けずにいた。
すると文フリの数日前、いつもの友人から「Pと行くことになったけど、欲しいものあったら買ってくるよ!」とLINEが。私は行ってみようかなと迷っていること、欲しいものはたくさんありすぎること、などを伝えた。
「Pが美奈子も来たら、って言ってるから集合」
ということで、お金を使いまくりそうだなぁとか迷っているうちに参戦が決まった。ひとりで行くのは心細かったのでありがたい。
ちなみにいつもの友人も、Pさんも下記の記事に出てくる。久方ぶりの集合である。
当日は少し早めに集合して場内のまわり方を検討することにした。なにせ全員始めてだし、お目当てのものは確実に購入したい。
調べてみると、会場近くにある喫茶店はタリーズの一択だった。まぁいけるだろ、とタカを括って開場時間の一時間ほど前に行くことにした。
文フリ当日、まず浜松町まで行くのに新宿から山手線に乗ったのだが「遠いな、おい」と思った。そもそも私は新宿までちょっとかかるところに住んでいる。
目黒くらいまでは遠さを感じないのだが、浜松町までは長すぎて車内でうつらうつらしてしまった。(イベントごとの前はたいてい寝不足)
そしてさらに、浜松町からモノレールに乗るのだ。
ようやく辿り着けるのか、と思って乗車したのだが人が多すぎる。これはまさか全員文フリなのか?と思っていたら大井競馬場前にてそこそこの人数が下車した。
そうか、これからみんなもつ煮食べるのか、と思った。そんな訳はないのだが、競馬場というと串焼きもつ煮どて煮ビール片手におじさんが競馬新聞振り回している絵面が反射的に出てくる。
まぁ、もつ煮は置いといて。
流通センター駅に着いて降りたところ、すごい人だった。時間的に出店者側が多いのか、スーツケースをガラガラしながら一斉に改札に向かう人々。
これはタリーズ、無理じゃない?と思いはじめる。でも着いてしまったものは仕方ないので、真っ先にお店に向かった。
案の定、席が取れない。ひとり席が空いていたのでひとまずそこに荷物を置き、どうしようかと思案していたところ、奥のふたり席が空いたのでスッと移動。Pさんが何時に来るか分からなかったが、とりあえず友人とふたり分は確保。
コーヒーを飲みながらサンドイッチを食べ終わると、友人が到着。
隣の席のお兄さんがひとりのようだったので、Pさんが来たら一脚椅子を借りて良いか訊いてみると快諾してくださり、席の心配はいらなくなった。そして、我々は印刷してきたマップにチェックを入れていく。
すると、いつもの友人から甘い香りがした。私は香水オタクのため、友人をニッチフレグランスのショップに誘導したりするわけだが、彼女はまんまと何本か買っている。
人生で初めて買った香水がいきなりニッチだった彼女は、この日も甘い香りがお似合いだった。
私が香水について語っている記事はこちらです。
そのうちPさんも到着。相変わらず眩しい…。
なんやかんやと話をしていたが、気がつくといつもの友人とPさんがお互いの二の腕を触り合っている。タリーズでいったい何をしているんだ。まるで女子高生同士のいちゃつきである。
女の子ってお互いの体を触り合うことが多いような気がするな。なんでだろ、柔らかいから?普通に好意の表現?あ、私の周りだけか?てか、ふたりとも二の腕ほっそ!と、笑いながらジロジロ眺める変態おばちゃんになってしまった。
もみもみタイムも終わり、今日Pさんがとある男性と会おうとしている話になった。それならここで合流すればいい、という流れに。
ああ、前もそうでしたよね、人が増えて移動するんですよね。(前出の記事参照)しかし4人も座れるところが空くかな...うん、空いた。すぐに空いたよ。
ということで我々は席を移動し、その男性も合流。その方を仮にZさんとしておく。
Zさんはいかにも文学青年っぽいナイーブな雰囲気を内包しつつも、会話の合いの手がとても上手で社交的な人だった。
喩え方、ワードチョイスの的確さ。いつもの友人のテンションが高いトークに、初対面ながらこの返しができる人...頭もノリも良いな...と勝手に感動していた。
私は自他共に認めるテンション低めの陰キャ且つ全てのテンポが遅いので、3人以上で初対面の人がいたりすると、そんなにしゃべらない。この時もそうだったが、別につまらない訳ではないのだ。
正直、人の話って聞いているだけで楽しいことが多い。(まぁ無条件で楽しいのは私が好きな、面白い人たちに限るんだが)お酒が入るとしゃべる質だが、それは頭の回転率が少し上がっただけで「楽しい楽しくない」という気持ちの部分にはあまり関係がない。
あとは会話を聞きながら人を観察するのが癖になっている。観察はあまりよろしくないなと思うが、職業病みたいなものである。
ここにいる3人とも社交的で常識的なんだけど、絶対ひと癖ふた癖あるよな、やはり文フリに来るということはそういうことなんだな、こんな人たちばかり集まるってどういうことだ。などと思って話を聞いていた。(Zさんに関しては初対面で癖とか書いてすみません)
こう書くと「お前も癖しかないだろ」といつもの友人に言われそうである。でも初対面で面白い人認定され、覚えられてしまうのは確実に友人の方だ。見た目が麗しいのにしゃべったらテンションが天井突き抜けてて、言ってることもなかなか変わっているからだ。
人間はギャップがすごいと記憶に残るものである。
私なんてどこにでもいそうな感じの顔立ち、たいしてしゃべらない、変なこともそんなに言わず、なんなら声が低めで小さい。初対面で面白がられる要素がない。
そうだ、私はどこにでもいそうな無害な雰囲気からなのか、頻繁に知らない人に道端で声をかけられる。わりとあらゆるタイプの人間に、だ。
それは道に迷ったおばちゃんや外国の旅行客に始まり、キャッチの若い男性、コロナ禍ではマスクに言及してくるおじさんおばさん、信号待ちやバス停で世間話をしてくるご高齢の方、お母さんだと間違えて手を繋いでくる子供など多種多様だ。
道を訊いてくる人なんて渋谷や銀座のような人混みでも、なぜか私にロックオンしてくる。目が合った途端に話しかけられる。
もちろん分かる場所ならきちんと伝えるし、急いでなければ分からなくても調べたりする。そういうのが嫌ではないが、なぜこんなに人が溢れているのに私?とは思う。
昨日だって、ある店でお爺さんに店員さんのような扱いを受けた。
「〇〇みたいなのはどこかな。ここだけ?」と言われ、私が「あ、こことここだと思いますけど…」と言いながら店員さんを探したら「みんな忙しそうで聞けないんだよ」と言われた。
そりゃそうだが、なんで私に訊いて分かると思ったんだ。二度手間だろう。
海外の人に複雑な説明するのが面倒で「Follow me」的なことを言い、目的地まで連れて行くこともたまにある。これを言うたびにジャンヌ・ダルクじゃないんだから、って思ってしまう。(実際にはもう少し丁寧に言っているが)
なので「足止めを食らっている時間は全くない」時は意識して早歩き、話しかけないでオーラを出すか、ヘッドホンを外さない。わざわざそうしないといけないくらい漂う無害感、とは...。
また話が逸れた。
まだタリーズの中の話じゃないか。文フリ会場にたどり着けていない。
たどり着けてけていないのだが、もう疲れてしまったので今日は前編とする。文フリ、まさかの前後編...。そんな引っ張る話でもないっての。
おまけ。
急に読みたくなったから本棚探したんだけど無くて、たぶん実家か誰かのところに行ってしまったか。仕方ないので買い直した。そういえば遠藤周作も見当たらないんだけど?おかしい。
こういうこと多いんだよな。人生で何度本を買い直せば気が済むんだろう。
結局のところ大江健三郎の出現によって筆を折った、もしくは小説家になることを諦めた人ってどれだけいるんだろうね。よく聞く話だけども。
線の狂気と真理
書こうと思いながら忘れていたが、4月の頭に東京都美術館で開催されていた『レオポルド美術館 エゴン・シーレ展』を観に行った。
シーレは好きなので観に行くという一択ではあったが、展示の内容はちょっと微妙だった。もちろん本物が観れるのは嬉しいし、図録だって買って帰ってきたのだが。
シーレに関してはもっと観たい絵があったということ、他の作家の紹介が多くて構成がなんとなく散漫な感じがしてしまい、結局何を観たんだろうなぁと思ってしまった。(ココシュカは好きだから観れて嬉しかったけど)
端的に言うと、シーレの絵をあまり知らずに来て「これがシーレか」って思う人がいたら「いや、もっとすごいのあると思う」と食い気味に伝えたくなってしまう感じだ。(有名な絵を呼べないほど、予算や力がないという日本の衰退っぷりもあるんだろうか、もしかして。仮にそうだとしたら辛すぎるな)
別に展示の文句をたれたいのではない。何度も言うが、シーレを観れたこと自体はありがたいし、有名な絵だけが全てということもない。
だがここのところ、美術展も入場料が高くなっているし(少なくともシーレ展は映画よりも高い2200円だ)併せて図録も買うとなかなかのお値段ではある。そうなるとどうしても満足度は気になってしまう。
とはいえ個人の財布事情から満足度が気になるというだけで、料金自体が高くなることは昨今の流れから仕方がない。むしろ現場の人たちはそこまで金銭的に潤っているとも思えないし、きちんと還元できるような料金設定にして欲しい。
だから私は行ける展示には他の部分を削ってでも積極的に行く。そうしないと「続いていかない」からだ。
だが値段が上がって文化芸術を鑑賞することが「金持ちのためだけの道楽」になりつつあるとしたら、なかなかの末期症状であり、たぶん世界的にそういう方に向かっている。(昔からそう言う側面があったことは否定しないが、体感的に今ほどではなかった)
私がそういうことを憂いたところでその流れがいきなり変わることはないし、そもそも私だって恵まれている側だという自覚はある。
でもぱっと何かできなくても、考えることをやめてはまずいな、と思っている。
好きな作家の話に戻る。
ホルスト・ヤンセンという作家が好きだ。シーレと違って有名ではないが、シーレを好きな人はだいたいこの作家も好きだと思う。
手に入りやすいのは下記の書籍くらいか。
シーレもそうなのだが、ヤンセンの描く線が好きである。細い線の強靭さに狂気を感じる。むしろ狂気しかないかもしれない。私は「何を感じているんだ、この人は」という怖い線が好きなんだろう。
たぶん嫌いな人はめちゃくちゃ嫌いな類の画家だ。シーレですら嫌いな人がいるんだから。ちなみにうちの人はシーレの風景画以外は気持ち悪い、と一刀両断だった。
なぜ気持ち悪いかって、当たり前に見えるような描き方をしていないからだ。人間の身体を自在に動かして、なんなら負の精神性を前面に出しているから、ぱっと見は気持ちが悪い。(私はそこにエロスを感じるタイプだが、少数派なのかもしれない)
だが、それを言ったら浮世絵だって見えたままの形を描いておらず、立体感は押しつぶされている。
モネなんて目が悪い人が描いているみたいに輪郭がなく(これは悪口じゃない、オランジュリー美術館に行くくらいは好きだ)写実的なフェルメールだって光と影の表現に関して、実際には見えるはずのない顔料の粒や筆跡を用いて表現している。
絵なんて「見えないもの」を描いてなんぼなのではないか。
蛇足だがBUMP OF CHICKENが『見えないものを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ』と歌った時、私は「それが人生の真理だよね」とか思って感動した。その曲しか知らないのだが。
人はいつだって見えないものを見ようとし、見えないものを見えるように表現しようと躍起になる。
見えないものは怖い、見えないものは淫靡、見えないものには魔力があり、見えないからといって存在しないことにはならない。
もちろん怖いからそれを嫌がるのか、興味を持ってそこに突き進むのか、それはその人の好みなので良し悪しではない。
でも仮に全てのものが「見えて」しまったら、この世はとてもつまらない、空き箱の中みたいなただの空虚になる。
これだけは好みに関わらず、事実だと思っている。
私は見えないものがたくさんある世界で、それらを想像力逞しく見ようとして、望遠鏡というよりはカメラを覗き込んだりしながら遊んで表現して楽しく死んでいきたい。
おまけ。
友人にもらったマッターホーンのサブレを食べながら『悲しみを聴く石』を一気に読んで、打ちのめされた1日でした。あ、サブレはもちろん美味しかったです。
子供のようにパート2
再びお菓子をもらった。今度はいつもの友人の家族からだ。
なんだろう、もしかしてお菓子をあげておけば上機嫌な生き物だと思われているのだろうか?間違ってないけど。
もらったのは韓国土産だった。
…1945年からの『元祖』ということしか分からない。
ふむ、こちらを見ると羊羹だと分かる。ということはこの茶色いのほほんとしたキャラクターは小豆か。
友人の家族いわく、見た瞬間に私へのお土産だと決めたそうだ。ちなみに会ったことはない。友人が私の話を家族にしているだけだ。
それだけでこのお土産とは。なぜ私のキャラがばれているのだ。勘が良いね。
中の包装は金色だった。延棒感がある。
日本だと羊羹の包みはだいたい銀色だよな。何にせよ、ホイル的なものじゃないとダメということなのか。
中身はよく見る羊羹である。ツヤツヤで焦げ茶色。
(金紙をバナナみたいに剥いてしまったが、開け方はこれで合っているのだろうか)
味も当たり前だが、羊羹だった。小豆と黒糖のような甘い味がした。ただし、よくよく味わうと謎のクリーミーさがある。小豆の種類が違うのだろうか。ほんの少しだけ薬膳味があるというか…ただこれは、韓国という先入観かもしれない。
調べてみると、韓国の小豆が大きいという話も見受けられる。やはり若干の違いがありそうだ。そりゃあ、風味も変わってくるな。
ちなみに「栄養!」と書いて売っていたらしい。
おそらく私は栄養過多だけども。特に甘味は摂取しすぎているくらいである。
日本でも羊羹は栄養(カロリー)があって、非常食として優れているとされている。登山に持って行け、とか書いてあるのをよく見る。
井村屋に関しては「えいようかん」という非常食用にした羊羹を出しているらしい。
5年半も持つのは良いな。買っておこうか。
本当は大好きな『あずきバー』を非常食にしたいところなんだが。硬いし冷たいし、水分なさすぎて向いている訳がない。
ところで、あずきバーって石ぐらい硬いよな、と思って調べたところ
岐阜県関市の刃物メーカーが行った測定によると、あずきバーの硬さはロックウェル硬さにして最大で HRC 320 あり、これは人間の歯(HRC 34)どころかサファイア(HRC 227)よりも硬い。
と、Wikipediaが言っていた。
でしょうね。原材料のシンプルさ故の硬さ。ペロペロチョコより断然硬いので、こちらをペロペロするべきではと思うが、それだと小豆の風味が口に広がらず美味しくない。
ちなみにペロペロチョコの話はこちらです。
あの硬い『あずきバー』を美味しくいただくには、比較的丈夫な奥歯で割るしかない。
私は寝ている時に歯軋りをすることが多く、歯にヒビが入っている。しかも、至る所にだ。(マウスピースを作ればいいんだろうが、歯医者嫌いもあってなかなか踏み切れない)
そんな私があずきバーを食べる時は、それなりに犠牲を覚悟する。幸いあずきバーが原因で歯が欠けたことはまだないが。果たして、いつまで食べられるのかは疑問である。
そもそも、ちょっと室温で柔らかくしてから食べるべきなのである。なんで決死の覚悟で食べているんだろう。普段から人を待ったり、ゆっくり行動するのは苦じゃないくせに、あずきバーが柔らかくなるのは待てないのだ。
ちなみに新幹線のアイスも待てない。待てなくて、手のひらを犠牲にする。でもそうすると周縁部だけ溶けて、結果的に食べにくいんだよな。分かっているのにいつも手のひらを赤くしてしまう。
…動きの問題ではなく、食い意地の問題だった。好物を目の前にすると待てないのだ。
猫舌なのに、熱くて辛い台湾ラーメンを早食いするしね。そしてだいたい上顎の皮膚、もしくは舌を犠牲にする。私はいつも、何かを犠牲にしながら美味しいものを食べているらしい。
でもよく考えたら、たいていの食事はそれ自体が「犠牲」だもんな。こちらが多少の犠牲を払って食べるのは当たり前という気がしてきた。
こちらの犠牲が歯とか皮膚というのが妥当なのかは分からないが。
犠牲を払うということ、払われた犠牲を血肉にするということ、食事というのはなんとも物騒なんだな。生きていくってそれだけで物騒なことなのかもしれない。
あと何年生きて、あと何回食事をするかを正確には把握できないが、危険を感じながら美味しく食べ物をいただくことにする。宇多田ヒカルが「ひとりじゃ孤独を感じられない」って言ってるけど、ちょっとそういう感じだ。物騒じゃないと美味しくないってことだと思う。
語彙力がなくて言いたいことが伝わらないかもしれないが。(そもそもこのブログで『言いたいこと』なんてあまり無いんだけども)私の食い意地が張っている限りは生への執着がすごいってことなので、皆さまご安心くださいという感じだ。
という訳で、私にもっと食べ物をくれてもいいよ。
おまけ。
観たんですよ。
演奏のシーンが良かったけど、どうにもこうにもダイジェスト感は否めなかったので漫画を読もうと思います。でもそれだと音はないっていうジレンマ。
あと急に降ってくるアレがね...ああいうのあまり好きじゃないのよね。もっと本人の内的葛藤が見たかった。たぶん漫画だと感じられるんだろうな、と思いつつ。難しいですね、この尺におさめるのって。
時には子供のように柔軟に。
齢40にして、なんの脈絡もなく『アンパンマン ペロペロチョコ』をもらった。
いつもの友人の、友人から頂いた。
その人には一度だけお会いしている。と言っても、ちらっと挨拶しただけだが。ただ、いつもの友人を介してお互いの存在をそれなりに知っている感じだ。
で、なぜこれを私に?精神年齢がバレているのか。
このお菓子は対象年齢何歳くらいだろうか。3・4歳から小学校低学年くらいがターゲットか?そして「齢40にして」とかなんとか書いたのだが、そもそも小さい頃にこのお菓子を食べたことがない気がする。
発売年を調べてみたら1989年と書いてあった。
これは大変微妙な年だ。小学校に入ってからアンパンマンが好きだったことがないので、もしかしたら食べたことがないのでは。
ということは、初めて食べることになるのか。
この年齢になると、わりと色んなものを食べてきている。たまに海外の食べ物だとか、未知の食べ物を食べることはあるにせよ、初めてというものが減ってくる。
だが、子供用のお菓子を改めて食べるなんていうことはほとんどない。我が家には子供がいないので、わざわざスーパーなどで目にとめることもない。
という訳で、この歳で「人様からもらって、初めてアンパンマン ペロペロチョコを食べる」体験をすることになってしまった。なんかサラッと食べようとしてたのに、食べにくくなってしまったな。
とはいえ、ここからはペロペロしながら書こうと思う。
(どうでもいいが、ペロペロチョコというネーミングもどうにかならなかったのか。他の擬音とか…意外とないか)
私はアンパンマンのテレビ放映を観たことはあっても、グッズを買ってもらったりした覚えがない。アニメの放映が1988年からで、当時6歳。
おそらくその頃は、アンパンマンは男の子向けという空気があったと思う。彼は(たぶん)男性で、ヒーローだからだ。
今となってはどっち向けとかないだろ、と思うのだが。出てくるキャラクターも女の子(と思われる設定)が少なかった気がする。
戦隊ものでも「〇〇ピンク」みたいなのが女性、リーダーみたいなのはたいてい男性だった。
その代わり女性が主役の『魔法少女ちゅうかないぱねま!』やら『美少女仮面ポワトリン』があった。いぱねまは島崎和歌子姉さんである。可愛かった。シリーズ最短で終わってしまったらしいが。
最近は「明確な男の子向け女の子向け」が少し減ってきた気がして良いなと思う。
私の頃はランドセルすら赤か黒しかなかった。黒が良いと思っていた私は自動的に赤を買い与えられ、歯軋りしたものだ。親には言わなかったと思うが、結構ショックだった。
あとダサい。ランドセルは便利だけどダサい。子供の体には負担がかからないように設計されているとしても、小学校低学年の子どもにはデカすぎるし、ダサい。子供の頃はとにかくそれが嫌だった。
横にリコーダーが挿せるとか、鍵がしっかり閉まるとか知ったこっちゃない。もっとカッコいいものが持ちたかった。
何が言いたいかというと、子供は思った以上に意思や好みがはっきりしている。大人になると忘れてしまいがちだが。ただそれを伝える術(主に言葉)が未熟なだけだ。
子供に対して、なにか決めつけて話をしないようにしたいなと思う。だいたい、子供の方が頭が柔らかくて発想が自由だったりする。経験値が低いということは、先入観がないという長所でもある。
子供の意思は汲み取りつつ、こちらも先入観なしで話ができたら楽しいと思う。自分の家に居ない分、人様の子供には優しくできたらいいなと思っている。
そんなことを子供向けのお菓子をもらって考えた、という日記。
ペロペロチョコ、終了。
案外柔らかかったので、舐めないで噛んで食べてしまった。大人だし。味はチロルチョコだった。ちょっとだけ粉感が多めのチロルチョコ味。
ちなみにパッケージを開けたところ、
『あかちゃんまん』が出てきた。
なんだろう、私が赤ちゃんとでも言いたいのか。そうですか。
そういえば、私は数年前まで完全に社会から外れたところで生きていたので、40にしては経験値が低く子供っぽいかもしれない。
ということは、自由な発想で面白いことを思いつくかもしれないな。やったね。
(ということにしておいてください。企画書が煮詰まってます。)
おまけ。
記事を読みながらのたうち回っています。何この美しい中華料理は。
町中華のチャーハンとか餃子が大好きなんですけど、こういうのはまた別物として食べてみたい。鮑!海老の沖漬け!ちまき!ライチ!
花と酒と甘味
桜をきちんと愛でる間もなく、気がついたら4月に突入。
昔は4月に満開だったような。入学式の頃にもまだ咲いていた記憶がある。
私の母校は正門の前に立派な桜並木があり、みんなそこで写真を撮っていた。私ももれなく撮っていたはずだが、写真嫌いだったため満開の笑顔ではなかったと思う。母親はウキウキしながら撮ってくれていたはずだが。今考えると申し訳ないことをしたな。
なんかさ、桜並木って毛虫すごいんだよね。その桜並木は母校の敷地ではなかったんだけど、慣例として生徒が掃除をすることになっていたので、もうこれ虫掃除じゃんか、だるいきもいうへぇ、って思いながらでっかい箒を引きずっていたはずだ。
そうだ、大きな立派な箒だったな。今になってみると、その掃除の光景はカメラに収めておきたいような、味のある瞬間だったかもしれない。
...毛虫とか書いちゃったが、桜は好きなのである。
特に小説、梶井基次郎『桜の樹の下には』と坂口安吾『桜の森の満開の下』には感銘を受けて何度も読んだので、桜というと特別な気持ちが湧いてくる。
怖いくらいの美しさなんだよね、桜って。あと満開の時だけではなくて、散る時に風情がある。昨日はお花見に行ったんだけど、気がつくとお酒が入ったプラコップに花びらが入ってたりする。あと人の髪の毛にふわっと乗ってたりとかね。
そういう、ちょっとした風景をつまみに「春だなぁ、出会いと別れの季節だなぁ」としんみりしながら外で飲めるのは最高だ。
昼から外で飲酒できるのが最高、という話みたいにまとまってしまったが。
小説についてもう少し触れておこう。坂口安吾の方は、端的にいうと「山賊と美しい女の幻想的な物語」である。幻想的と言っても、それなりにエグい描写もあるし、ふわふわした綺麗な話ということではない。
私はこの話のラストのたたみかけが好きだ。たたみかけた上で、最後にピタッと時間が静止する。そして私たち読者は桜の木の下に放り出されたまま、しばし途方に暮れるのだ。
それと、タイトルの『桜の森の満開の下』って「の」ばかり使っていて、本来は避ける用法のはずなのだが、この場合は素晴らしく内容にフィットしている。「の」を続けることによって桜の異質さ、異様さの強調になっているところ、最後が「下」で終わるフォーカスの仕方などに「天才!」と、初めて読んだ時にひっくり返った。
『桜の樹の下には』は有名な一説「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」から始まる小説だが、とても短い。短いが、それだけに切れ味の鋭い作品になっている。満開の桜を見た時に感じる畏怖を見事に言語化しきっていて、どちらかというと嫌悪感をもたらす言葉が並んでいるのにもかかわらず、最後は腑に落ちてしまう。
ひとつひとつの言葉選びが冴えすぎていて、そのことに若干の恐怖を感じるくらいだ。梶井基次郎には何が視えていたんだ?という。完璧さが生む気持ち悪さがある。(私が完璧だと思っているだけなので、一般的な評価はよく知らないが)
そもそも桜に対して畏怖や一種の気持ち悪さ、居心地の悪さを一切感じたことがない人にはあまり響かないのかもしれないが、ちょっとでも考えたことがある人には伝わると思う。
正直、この2作品を好きっていうとなんか微妙な反応をされることもあるのだが、この季節に読んでもらいたい作品。
そういえば、私は桜餅も好きである。(真面目に小説の話を書いたのに、結局は甘味の話)
私が好きなのは道明寺の方で、関東風のやつではない。道明寺のつぶつぶ感、モチモチ感が大好きなのと、葉っぱの塩漬けのひと癖ある香りが好きなのである。
そういえば桜の花自体は基本的に無臭なくせに、この時期は桜の香りの製品で溢れかえっている。だいたい「Cherry blossoms」のチェリーに引っ張られている香りか、桜餅的な香りのものに分かれる。チェリー寄りの香りはそんなに好きになれない。
桜餅の香りというのは、主に葉っぱから香る「クマリン」である。この単語を思い出すたびに「くまモン」が頭をかすめるので鬱陶しい。似ているものが結びついて映像がパッと出てきてしまうのは、いい時もあれば悪い時もある。
とにかく、桜餅は道明寺一択。関東出身だけどそれは譲れない。
まとまらない感じになってきた。いつもだけど。
何が書きたかったかというと、桜が咲いたというだけで感情が揺れ動いたり、みんなが一斉に盛り上がれるっていうのはなかなか特殊だと思う。
遥か昔に桜の映画を撮ったのだが、またそのうち桜をテーマに映像作品を作りたい。コップに入った花びらを取り除かずにお酒を飲み干しながら、そんなことを考えた週末だった。
おまけ。
お花見の飲酒後、日付が変わった頃にカップヌードル(シーフード)を食べたら背徳の味がしました。おかげで今日は胃もたれです。夜はしじみの味噌汁飲もうと思います。
そして明日、胃が復活していたら絶望パスタか鴨・鶏チャーシューの乗った醤油ラーメンを食べたいところ。
ん?今日の夜ご飯を控えめにするからいいんだよ。ダイエット再開!(中断するの早かったな...)
銀座ってやつは。
休日の銀座は復活しつつあった。
先日、松屋銀座に用事があり祝日の歩行者天国を歩いてみた。平日に行くことが多いので、人の多さに驚きつつ海外からの旅行客の姿に懐かしさを感じた。
しかし、人混みが苦手な私はひょこひょこ歩きになっていた。ひょこひょこ…ぴょぴょこほどは可愛くないやつ。
松屋に行く前に、阪急メンズ館に寄った。
お目当ての香水があり、今月は絶対に買う!と決めていた。だが在庫はなくまさかの入荷時期も未定と言われてしまい、ひとまず情報が入ったら連絡をして欲しいと伝える。
他にこれといった用事はなかったので、一瞬で阪急メンズ館を去ることになった。
肩透かしを食らった私はGINZA SIXへと向かった。
目指すはfueguia 1833である。先日も書いた「図書館の概念香水」のお店だ。
(なんかこの記事だけめっちゃ読まれているね)
ワクワクしながらフエギアに入店した私。
バベルは持っていて…などと店員さんに話をし、あれこれ香りを提案してもらう。良い香りが多すぎて頭を抱えていたところに、友人(いつもの)からLINEが来た。
彼女も銀座に用事があって来ていたので、フエギアに来てくれと返事をした。私はこの友人に送る手紙に、手持ちの香水を吹きつけたムエットを同封することがある。布教活動だ。
なのでフエギアに居るとあらば呼ばねばならない。
「あれ、フエギアどこだ?」と迷子のLINEが来たりしたが、なんとか友人が到着。彼女は普段から声が大きくテンションが高いのでどこに居ても目立つ。
私の時にはゆるゆると香りの提案をしてくれた店員さんも、完全に友人のペースに飲まれていった。私はそういう光景を眺めるのがなんとなく好きである。
ちなみに私は店員さんに覚えられないよう、お店ではなるべく影を薄くしている。そもそもの性格というのもあるが、なぜか「いつもありがとうございます!」とか言われると逃げ出したくなるからだ。理由はよく分からない。
店員さんは重ね付けなどを提案してくれたが、友人は香水をワンプッシュで済ませたいと言う。曰く「頑張ってつけているから」だそう。そして甘い香りが好き!と、とにかくハッキリしている。私も香りの好みはハッキリしているが、新しいものに手を出すのも好きだし、重ね付けも楽しむタイプだ。
友人と私は似てるところもあるし全くもって違う部分も多々ある。そして表面上のテンションがやけに高いのとやけに低いの、という組み合わせなのでデコボコが過ぎる。だが、何故かとても楽だ。あ、凸凹だからちょうどいいってことか。
さして面積がない店内を何周も駆けずり回ったあげく、友人は甘々な香りを購入することに。ムエットで送りつけたことがある香りだ。布教成功。
私は欲しい香りの在庫が店頭になく、オンラインで買おうかな…と決めたところで、本来の用事に向かわねばならない時間だと気がつく。
会計をする友人とさよならをし、松屋へと。この時ばかりはひょこひょこ歩いてはいられないと思い、早歩きで颯爽と向かった。
そう、この日はくどうれいんさんのトークイベントがあった。推している作家の話を、目の前で聞ける!サイン会もある!
くどうれいんさんに出会ったのはエッセイだったが、彼女の小説も俳句短歌も好きだ。どれも温かさがあったり、かと思ったら飄々とした雰囲気があったり、クルクルといろんな表情が見れる感じがして楽しい。でもどこを取っても「くどうれいん」がしっかりといる感じがするのがすごい。
まぁ作家ってみんなそういうものなのかもしれないが、最近ようやく自分の軸が見えてきた私からすると、すごいよなぁと思うのである。
さて、松屋の続きだ。
小走りした甲斐もあって、受付番号が3番目だった。案内されると最前列のど真ん中である。なにそれ、目の前とか緊張するじゃん。
このトークイベントは、銀座名匠市という伝統工芸品が集まる祭典の一環だった。目の前で松屋社員さんによる、くどうさんへの工芸品プレゼンが繰り広げられる。私までプレゼンされているみたいでとても楽しかった。
当然のようにあれもこれも欲しくなってしまった。だが、ほいっと買うことはできない値段のものも多いので、今後ゆっくり吟味したいなと思う。一生物ね。
その後はサイン会に参加したり、会場の工芸品を堪能し、目の保養だわ...と思いながら退散した。
人の多い銀座はなんだかんだ心地よかった。活気って大事だな、と実感した。5回に1回は休日探訪でもいいかもしれない。
ところで今、「きゅうじつたんぽう」が一発変換されなかった。そんな馬鹿な、と思ったら「たんぼう」が普通の読み方らしい。
私はなぜ「ぽう」をメジャーだと思っていたんだ?間違いではないらしいのだが、普段ぽうぽう誰かに言っていたかと思うとちょっと恥ずかしい。指摘されたことないけど。たぶんそんなに会話に出てこないからだけど。
でも「ぽう」のが響きが軽くて「訪れる」感じしない?
話が逸れた。
銀座の後日談。友人の話だと「店内で待ち合わせして解散する人たちは初めてです」とフエギアの店員さんに言われたとのこと。
確かに側から見たら少々謎の行動なのかもしれない。なぜフエギアで集合してサクッとさようなら、なのか。わずか小一時間くらいである。でもそれが私と友人というものなんだよな。特に疑問に思う余地はない。
それと阪急メンズ館で「入荷未定」だった香水が「売り切れ」でもう入荷しないということが判明。その連絡をもらって意気消沈した私はフエギアの香水を流れるようにポチった。
だがしかし、再び阪急から連絡があり「倉庫に一個だけ在庫がありました!どうしますか?」と言われた。どうするもこうするも、そんなの買うしかないじゃないか。あんなに欲しかったんだから。
いやでも在庫管理どうなってんのー!
結局、多額のお金と引き換えにいい匂いの液体がふたつも増えた。嬉しいけどいろいろ頑張らないとピンチである。庶民が買う香水の額じゃない。
いい匂いをさせながら、味のない草を食べる生活をするか。...書いておいてなんだけど、味のない草って何?もやしだろそこは。
おまけ。
清順派のポッドキャスト、ゲスト出演してます。聴いてくださいませ。
3月25日の金沢でのイベントについても話してまーす!イベントの詳細はこちらのページをどうぞ。
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