それなり日記

映像作家、三宅美奈子の日記のようなものです。

サイゼリヤという魔界にて

 

ただの思いつきで、友人たちとサイゼリヤに集合することになった。友人とはいつもの友人、それからPさんである。毎度出てくる人たち。

過去記事はこの辺りかな。

minakomovie.hatenablog.com

 

サイゼリヤはたまに行くのだが、だいたい同じものを食べる。ミラノ風ドリア、ほうれん草のソテー、小エビのサラダ、トリフアイス、最近はラム串やムール貝などなど...。地元の駅にも昔からあったので、馴染みが深い。

だが「ノリで女3人、サイゼに集合」みたいなことはいつぶりだろう。かなり懐かしい行為だ。

 

LINEのグループにてごちゃごちゃと会話し、「それぞれ作業しよう」という流れになった。私はとりあえず、このブログを書くことに。そう、私は今、このブログをサイゼリヤで書いている。

私は昨日、某所にて監督・俳優陣と飲んでいた。顔が腫れるなぁと思いながらもハイボールを三杯ほど飲んで帰宅。飲んだ日はすぐ寝れるがすぐに起きるので、4時間ほど細切れに寝て、昼過ぎには予定していた映画を観に行った。

その映画上映後に、全然別の場所のサイゼリヤに行くというスケジュールだ。

 

なんだか書きながら、とても眠い。書きながら寝れそうってどういうことだ。

 

 

さて、もう少し時系列に沿って今日の出来事を記すことにしよう。

まず都内のターミナル駅より、サイゼリヤのある某駅に向かう電車に乗った。映画を観ていたので電源を切っていた訳だが、LINEがたくさん届いていた。Pさんは昨日飲みすぎたらしい。飲みの翌日サイゼ。期せずして、お揃いだ。

場所的にはPさんが1番早く着きそうなのかな、と思いながら画面をスクロールしていく。「うなぎが食べたい」「タピオカ飲みたい」そんな文字が並んでいる。いや、私が向かっているのはサイゼリヤなんだが合ってる?相変わらず自由な人たちである。

何かにつけて「あれを食べたい」「どこどこに行きたい」を何の脈絡もなく言うのが、我々のLINEグループにおいてのスタンダードだ。とにかく、思いついたら言うのである。そしてそれをお互い何の疑問もなく受け入れる。とても快適なグループLINEだ。

 

目的の駅に着くと、Pさんから混んでいるから待ち、との報が。土曜日とはいえ夕方でも混むんだね。安いもんな。と思いながらサイゼに到着。

暑いのにドアの前で待たされているPさんの横顔が見えた。するっと前に顔を出すと、相変わらずまぶ...(いつものことなので略)。いきなり、美味しいお菓子をもらう。豆菓子とクッキーだ。私は私でチョコレートを持参していた。今日はお菓子交換会なのかな。

 

 

思ったよりも待たずに名前を呼ばれた。

4人掛けの席にていつもの友人を待ちながら、メニューを見る。まずは小エビだ。小エビは絶対に食べるんだ。あとPさん的には激臭ペペロンチーノ推しのようだ。激臭っていうのもアレだが、確かにサイゼのペペロンチーノはニンニクが効いている。そして安すぎる。改めて値段を凝視すると安すぎて不安になる。

ペペロンチーノ、アラビアータ、マルゲリータ、サラダ2つに冷製パンプキンスープ。あとはドリンクバー。まぁ食べられるでしょ(いつもの友人が食べてくれるだろう)、ということでモリモリ頼んだ。

 

ドリンクバーに飲み物を取りに行っている間にガンガン料理が届いて、テーブルが皿だらけになった。料理の写真をいつもの友人に送りつけ、先に食べ始める。

...すぐにお腹いっぱいになった。うん、暑いからかな?食べられないのにたくさん頼みがちなの、良くないね。でも小エビのサラダはずっと食べられる。

 

Pさんにいい匂いがすると言われたが、めっちゃ汗かいてるので恥ずかしかった。ちなみにフエギアの某香りをつけていたのだが、これは真夏でもいい香りになる。とはいえ、汗臭いのにスンスン嗅がれるとこちらはモゾモゾしてしまう。スンスンモゾモゾ...妖怪っぽいな。

 

なんやかんやと駄弁っていると、いつもの友人が到着した。

...あれ、今日は2人がお互いの腕を触り合ったりしないな。いつもの儀式はなしか。挨拶代わりのふれ合いじゃなかったのか。サイゼだから無いの?周りの目が気になるのか?いや、そんなタイプではないよな?さすがに今日は暑すぎるからか。でも「なんで今日は触らないの?」とは訊きづらい。

私は心なしか寂しい心持ちになる。が、なんでそんなことで寂しい心持ちにならねばならんのだ、とすぐに思い直した。

 

いつもの友人は追加でモッツァレラチーズを注文。速攻で届いたそれを食べながら「薄い」と言う。オリーブオイルに塩が入っていて、それをチーズにつけて食べるのだが塩味が薄いらしい。いつもの友人の顰めっ面を見ながら、よく動く顔筋だなと感心する。

そして顔の筋肉が動く人と言えばコロッケだな、とか余計なことを思い出す。いや、別にいつもの友人が似ているとかではない。私は顔の筋肉があまり動かない方だと思うので、動く人たちが羨ましいっていう話。それだけ。訓練すれば動くんだろうか。

 

いつもの友人がモリモリ食べるのを尻目に、作業を始めることにする。

すると隣の2人がけの席が空いたので、いつもの友人がそちらに移ると言う。まただよ、我々が集まると席の移動が必ず発生する。

過去記事を参考にしていただきたい。

minakomovie.hatenablog.com

 

minakomovie.hatenablog.com

 

店員さんにお願いをし、いつもの友人は全皿と共に移動した。さすがに全ての皿が移動すると思わなかった。まぁでも、とにかく暑いし食べて精をつけてくれたらいいな、と思い直す。今日は思い直すことが多い日なのか。

 

そこからしばらく、私は調べ物をしたりこのブログを書いたり、Pさんは仕事、いつもの友人は趣味に没頭していた。

ある瞬間にデザートタイムが訪れた。あんなにお腹いっぱいだのなんだの言っていたが、甘いものは頼むのである。私はジェラートとシナモンプチフォッカ、いつもの友人はジェラートのみ、Pさんはトリフアイスだった。

いつもの友人がジェラートを混ぜている。当然、面白い顔をしながら。私とPさんはスマホを向け、動画撮影をした。いつもの友人は本当にカメラを向けたくなる。

そして彼女はぬちょぬちょになったジェラートを食べていたが、そもそもジェラートはそんなに混ぜるもんじゃないぞ、と思った。思っていたらいつもの友人は「こうやって食べるんじゃなかったっけ、それは違うアイスか」的なことを言った。そう、あなたがイメージしてたのはトルコアイスだね。伸びるやつね。

 

私はシナモンフォッカチオを食べようとしたが、異常な量のシナモンシュガーがかかっていた。少ないよりはありがたいが、容器を倒してぶちまけてしまったのを持ってきました、みたいな量だった。まぁとにかく食べよう、と口に運んだが当然ぼろぼろこぼれた。左手を受け皿にしていたのだが、全然ダメだった。目測が甘すぎるんだよ。

と思ったら、私の左手の下に更に手が。Pさんが思わず差し出してくれている。本当に申し訳ない。でも更に下にあったスマホは既にシナモンシュガーまみれになっていた。なんでそこにスマホ置いてたんだよ。

 

私はこうやって「明らかにダメだって予測がつくのに行動に移してしまう」時がある。何故なんだろうか。この時も頭の片隅では「これ尋常じゃない量だからこぼすだろ」という思考があったはずなのに、そのまま口に持っていってしまった。脳みそから手を止める指令が出なかった。

別にものすごい欲求に駆られていた訳でもないし、手を止めることによって不利益を被る可能性はない。にも関わらず手が止められないということは、たぶん「究極的に面倒くさがり」な可能性がある。手を止めること自体が面倒すぎて、その後に面倒な事になる可能性を脳内から排除する訳だ。恐ろしいな。

と、長々と書いてみたが、単純に阿保なんだわ。

 

そのあと、ものすごい頻繁にうろうろする祖父と孫に気を取られたり、明らかな異臭に目が覚めたり(たぶん赤ちゃんのうんち)、店員がガッシャンガッシャンと不必要に大きな音を立てながら片付けをしたり、ドリンクバーの横の水道でうがいする人に遭遇して凝視しながら、我々のテンションが上がっていく。サイゼリヤの魔法かもしれない。なんだかいろんな人が居てカオスだったので、こちらもおかしくならざるを得なかった。

なぜか何人かにこちらを凝視されたので、我々のオーラも凄かったのかもしれないな。

 

 

ちょっと時系列がめちゃくちゃになってきたが、いつもの友人の発言から珈琲豆の話になり、さらにPさんオススメのカステラの話に発展した瞬間があった。しかし私たちふたりとも、そのカステラを食べたことがあったので、Pさんはがっかりしていた。

そのPさんの、ちょっと悔しそうな顔がとてもいい。私はPさんの顔の造形が好みという意味で眩しく感じるのだが、その造形が崩れた瞬間も好きなんだと思う。外見だけではなく性格など、見えないものでもそうだ。不完全の美ってやつか。

 

「顔の造形が好み」と書いたが、私はいわゆるルッキズムはよろしくないと思っている。個人の好みとして好きな外見っていうのはあると思うが、それは誰彼かまわず当てはめていいものではない。(もちろん、ひとりひとりがなりたい自分になるために努力するのはいい。とにかくそういう基準が当たり前だと思い込んで、周りにも適用するのはよくない)

なのでPさんに関して、一般論的な美醜をジャッジしている訳ではなく「目の形」だとか「首筋から肩の曲線」だとか、どちらかと言えば「物体の美」として好ましいと思っている、と言った方がいい。だから「造形」と書いた。

もちろん人間なので内面が外見にも溢れ出たりするし、声が心地いいだとか、いろんな要素が絡んできての「造形」という部分もあったりはする。だが、なんにせよPさんのことを100人中99人が美人だと言おうが逆であろうが、私の言っている「美」の判断は揺るがないという話だ。その程度で揺らぐのであれば、それは美の範疇ではない気がする。

ここまで書いたが、私、気持ち悪いな。造形美をいちいち味わうなよ。どこでも美術館なのかよ。だだ、ここまで読んで「キモッ」と思った人は安心して欲しい。Pさんが特別なだけで、周りの人間全員をそんな風に観察したりはしない。Pさんがどう思うかはなるべく感知しないことにする。

 

話が外れすぎて...戻そう。カステラの話に戻す。

Pさんが「カステラ自体はあまり好きではないが、そこのは美味しかった」と言っていたので、Pさんにはあの店を超えるカステラしかプレゼントしない、と決めた。他のものをプレゼントすればいいし、そのつもりではある。だが、あえて自らにハードルを科すことに意味がある、たぶん。今日から美味しいカステラ探しだ。

...Pさんに事あるごとに何かプレゼントしようとしている自分がいる。ついね、こういうことやってしまうんだよね。特に女性にはあれやこれやと贈ってしまう。これ美味しいよ!これ可愛いよ!これ効くからオススメだよ!っていうことばかり。押し付けおばちゃんじゃないか。相手が喜ぶものをあげなさいって話だぞ。

 

 

夜も更け始め、我々は人間関係について話をし始めた。夜になると話も深くなっていくのだ。毎度のことである。ちなみに誰ひとりとしてアルコールを摂取していないのだが、それなりに深めの話をしていたと思う。

 

が、現在私の眠気がマックスである。実はもうとっくに帰宅していて翌日なのだが、まだ眠いのだ。

ということで、今回も前編ということにする。後編はまた忘れないうちに書くよ。

 

 

 

 

 

おまけ。

よく見たら飲み物にピント合ってなかったわ。

高円寺のネルケン、内装が好きです。なんかお客さんは若者が多かったなぁ。昭和レトロ流行りですかね?でも今は平成レトロが流行ったりしてるのか。

もうさ、私が生きるレトロじゃん。流行ど真ん中じゃん(?)

41歳、楽しさを味わう。

 

レバニラと素麺が美味しい季節になってきた。

別に両方いっぺんに食べるという意味ではない。素麺はね、島の光ばかり食べています。小豆島の素麺は本当に美味しいよ。水とか潮風がいいのかね?あと油かな、やはり。

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レバニラに関しては、この酷暑で食べるもんじゃないだろ、っていう人も居そうだが。確かに受け付けない日もあるんだけど、やっぱりレバニラは夏の食べ物だよ。精がつくもの。口は臭くなるけど。

レバニラはずっとレバニラ、で呼んでたけど「ニラレバ」の表記もあるよね。なんなの、統一して欲しい。

 

なんでそんな話をしたかって、昨日は誕生日だったからレバニラを食べたのだ。

別に毎年そうしているわけではなく、今年はたまたまうちの人の帰りが遅かったので中華を食べに行ったという話だ。誕生日は美味しいものが食べたい。高級だろうがそうでなかろうが、好きなものが食べられれば万々歳である。

レバニラは家で作ろうとすると、大変面倒である。少なくとも私は下処理の段階で諦める。あとは大きな中華鍋がないと、あの味にはなり得ない。レバニラは中華料理屋で食べるのが一番だ。口は臭くなるけど!

 

 

あ、レバニラの話を延々としようと思ったわけではない。誕生日だよ、誕生日。

めでたく41歳になった。おめでとうの連絡をくれた人たち、本当にありがとうございます。41歳ともなると、正直覚えているのも面倒というか年齢に対するこだわりがなくなってくる。だが、お祝いの言葉自体は嬉しいに決まっている。こんな雑に生きている自分を気にかけてくれる人がいるってのはありがたいことだ。

 

このブログは去年の誕生日前に始めたので、1年は続いていることになる。といっても、記事は50しかない。週に1回以下の更新だ。まぁこれは仕方ないね。そもそもマメじゃないし気まぐれだし。でも1年間書き続けているっていうのは、私にしてはきちんと向き合っている方だ。

 

 

今まで生きてきて、長らく続いているものが少ない。映画を作ること、今の結婚生活、あとは趣味の文房具と香水だけだ。

趣味については頑張らなくても続けられるものが趣味だと考えているので、長続きして当たり前という感じではある。努力が必要な映画制作と結婚生活にしては、自分でもよく続けていられるな、と思う。私は基本的に努力ができない怠け者だからだ。

 

そんな怠け者の私が、前に記事に書いた通り文学賞に応募した。新しいことをするのは続けるのと同じくらい労力がいる。でも、書きたかったから書いてみた。

その結果、一次審査を通過することができた。

www.t-bungaku.com

 

二次審査は通過できなかったので、目標だった吉村萬壱さんと小山田浩子さんに読んでいただくところまではいけなかった。だが、初めて応募した文学賞で一次審査を通るということは、存外に嬉しかった。

 

今までだって、脚本を書いて審査を通過したことがある。映画を撮って映画祭で上映されたこともある。

だがそれ以上にあちこちで落とされ「選んでもらえないこと」のしんどさを味わってきた。選ぶ側の好みがあるとは思っていても、「面白くない」「才能がない」「そもそも向いていない」みたいな意見を突きつけられている気がして、なんでこんなことやってるんだろう?と思うこともあった。

 

ずっと「誰かに選ばれないといけないんだろうか」と自問自答していた。私は映画を作ること自体、その行為そのものが好きだ。でも、作る以上は届けないと意味がない。面白い面白くない、などの感想は受け手がいないと成立しない。

でもそこで誰かに選ばれるために作るのは、しんどい部分があるのだ。頑張ればできなくはないのだと思う。選ばれた映画を見て分析して撮ることは不可能ではない。誰かに好まれそうなものを作るのは(もちろん簡単ではないが)需要に応えるということだ。

だだ、そこを重視しすぎると辛くなってくる。需要に対して自分のやりたいことがマッチすればいいが、乖離している場合には埋める作業が苦痛に変わることがある。何をやっても楽しめる天才だったら苦痛ではないんだろうが、私は何をやるにも遠回りし、さらに間違ってしまうことが多いという、生きていく能力が低い凡人以下である。そもそも何かを楽しめる能力が欠如しまくっている。

 

その点、今回書いた小説は最終審査員に読んでもらいたいという目標があったものの、需要に関しては考えていなかった。選ばれなければ!みたいな気負いもなかった。ただ書いてみたかったから書いたのだ。

もちろん、書くという作業は楽しいだけではなく大変ではあった。でもそれは「今まで小説を書いてきたわけじゃない」という気持ちによって「書けなくて当たり前だよな」と考えることができたので、最終的に推敲も楽しくなった。これが脚本になると「今まで何をやってきたんだよ、お前は」という気持ちになって、めちゃくちゃにしんどいことがあるのだ。

 

だから比較的楽しんで書けた小説が一次審査を通過して、今までの私のやってきたことが少し報われた気がした。

ただ、楽しんで書いたが自由には書けていないと思う。もっと小説、言葉の意味から自由になったら二次選考に進めるんだろうか。

 

という訳で、目標は達成できていないので来年も阿波しらさぎ文学賞に挑戦したいと思う。一次を通してもらったので、調子をこいて次も書くと決めた。その辺の単細胞さは私のいいところだ。生きていくのはしんどいが、この調子の良さがあるから生きられている。

とにかく嬉しい誕生日プレゼントだった。このブログもまだしばらくは書いていこうという気にもなった。そう、私は文章を書くのが好きなんだったわ。忘れるな。

 

 

 

 

 

おまけ。

こういうのを置いてくれるから、近所のブックオフは...好き。

思ったより難しくなくて、今のところはスイスイ読めている。みすず書房ありがとう。

細胞ガチンコ対決

 

文芸誌ってのは場所を取る。

私は好きな作家の場合、単行本化を待たずに文芸誌で買うことがある。いち早く読めるのは良いのだが、とにかく保管場所に困っている。小説家でも出版関係者でもないくせに、山積みだ。

 

しかし今月はそんなことも言っていられなかった。

文藝に山下紘加『煩悩』が掲載されるため、何がなんでも発売日に買わねばならなかった。かなりの使命感だが、過去作も読んできているので絶対的な信頼感しかない。面白いに決まってる。

しかもタイトルよ。この豪速球なタイトル。好きだ。

 

以下、特にネタバレはしていないと思うが、改めてあらすじを書くこともしないのでご了承を。そして相変わらず私の経験に基づく勝手な話をする。愉快な話ではないかもしれない。

とにかく、この記事をご覧になった方は『煩悩』を必ずお読みください。必ずだよ!約束だよ!

 

 

 

本屋で購入してすぐ、バス待ちをしながらベンチで読み始めた。書き出しが良すぎて悶える。

小説は「ストーリーが面白い」とか「文章の美しさが半端ない」とか「自分にも覚えがあって入り込める」とかいろいろな理由で好きになる。山下紘加の場合は「脳が誤作動するくらい感覚表現が的確」という部分が突出している。

文章を読むと、皮膚感だとか内臓の動きだとか、そういう体の芯の部分にスイッチが入る。小説を読んでいるんだか、自分がその中に紛れ込んでしまったんだか、もう体・脳味噌の乗っ取りである。

 

『煩悩』のストーリー、主人公の涼子と友人の安奈の関係性については身に覚えがあるので、新鮮!という訳ではなかった。

私は過去に、これに近い経験を数回している。そして私は語り手の涼子ではなく安奈側の立ち位置だった。

私から見ると彼女らは、勝手に何かを期待して私という人物像を作り上げ、そしてなぜか下に見て、こちらが珍しく反論や確固たる意志を持って行動すると『そんな人だと思わなかった』と責任を負わせて逃げる人たちだった。

 

そう、だいたい逃げてしまう。こちらが謝り、しかし思ったことは伝え、その上できちんとした関係修復を願いでても逃げる。そもそも彼女らは、私の話はあまり聞いていないし、事情や気持ちも決めつけるだけで深く考えていないように見えた。自分のことは大切にしろと押し付けてくるくせに、だ。

そして私は匙を投げ、二度と会うことはなくなる。大切だと思っていた感情は一瞬にして冷める。憎悪にすら変わらず、むしろ哀れみを感じるようになる。

彼女らは何を守りたかったんだろう。そんなやり方で関係性を捨てるのなら、なぜ今まであんなに執着してきたのだろうか?と私には分からなかった。

 

でも最近は彼女たちのことが、なんとなく分かるようになった。おそらく本当に傷ついていたんだと思う。

私が態度なり言葉なりで直接的に傷をつけたという部分もあるんだろうが、いつの間にか曖昧になったお互いの細胞の境界線を、私が急に引いたことが決定打となったように思う。彼女たちは突然のことに驚き、線を認識することに拒絶反応を示す。実は元からあった線なのに。

 

 

これって「浸透圧」みたいな関係だな、と思った。

『煩悩』は一見、涼子が安奈を侵しているように読める小説だ。だが、逆だ。

浸透圧は溶液の濃度を一定にしようとする。目を真水で洗うと痛いのは浸透圧のせいだ。真水のように、浸透圧が低い安奈の分子は涼子に流れ込む。そして涼子に流れ込んだ分子により細胞が膨張していくため、彼女は伴う痛みに耐えられない。

しかし最初から濃度が同じであれば、そもそも移動しない。そこには何も、何の関係性も発生しない。濃度は安定しているが交わることがない。

どちらが幸せなんだろうか。強烈な痛みを伴いながらも関わっていくことを選ぶ人間は、どれだけ居るのだろう。私は痛くも痒くもない関係は必要だと思っているが、それだけでは生きていけないと知っている。

その痛みを伴う関係性が、側から見たら不健康だろうが病的だろうが歪んでようが、細胞が溶け合うような恍惚を感じる限りは逃れられないんだろう。一度でもそういう気持ちになったが最後、忘れることはできない。

 

さらに言うと「手に入らなかったもの」はより一層、求めることになる。

涼子は安奈を手に入れられなかった。唯一信じられるであろう感情をあえて欺き、信用できない自分の感情をあえて信じた。それは痛みに耐えられなかったからなのかもしれないし、先に待ち受けるより大きな痛みを回避しようとしたのかもしれない。なんにせよ、涼子の思いは形を変えて、安奈を求め続ける気がしてならない。

 

『煩悩』の最後の一文を読み終わった私は、ぐったりとしながら「恍惚」を味わった。とても疲れたが、最高の疲労感だった。私はマラソンや登山を趣味とする人の気持ちがよく分からないのだが、こういう読書後の疲労感に近いものを味わっているのだとしたら、そりゃあ虜になるよなと気がついた。

 

 

と、ここまで欲まみれの話をしてきたが、私は「人そのもの」に執着することが少ない。私が希求するもの、それは五感に訴えるものなので、その人間が持つ外見や思想や立ち振る舞いに固執することがほとんどない。

欲しいのは体温や匂いや皮膚感であって、相手に捧げたいのもそれだ。そこに発生する感情の意味や関係を定義する言葉、社会的な意味などはその後からついて来るだけ。

 

こういうことを書くと感覚や感情だけで生きてるんじゃないよ動物かよ、ってヤジが飛んできそうだが、その通りなのである。

もちろん私はこの世界で社会生活を営んでいるので、一定の人間らしい振る舞いはする。そして趣味が合う人だとか価値観がぴったりくる人だとか、それはそれで一緒にいて楽しいし、そこから友情や愛情を育むことは多々ある。

だがそれと、その人間への「欲」は別だ。どうしても抗うことができない欲というのは存在する。私は相手を庇護することで、配下に置くことで、その欲を手に入れようとは考えない。そこが涼子とは違うなと感じる。

 

私は涼子よりも卑劣なんだと思う。だから相手の身体と思考を自由にさせながら、好きな時に好きなだけ感覚だけを求め、もっとも深い部分だけは触れさせない。そういう手法を取ってきたことに、今更ながら気がついた。

私にひどい言葉を投げつけてきた、ひどい行いをしてきた彼女たちは、どうにかして私の深部に痕を残したかったのかもしれない。傲慢な考え方かもしれないが、そうとしか思えない出来事がいくつもあったのは確かだ。

 

そう考えると涼子って真摯で可愛い。安奈への欲がブレない。煩悩に身を捧げ、傷つきながら血をたれ流して足掻いている獣感。可愛い。めちゃくちゃ可愛いじゃないか。(なんかこういう書き方をしてしまうとサディストっぽいな)

関係性が変わり眼差しが変わり、めちゃくちゃ傷ついている自分に気がついてなお、安奈のことを思い出してしまう涼子、ただの素直だよ。好き。

 

 

まぁでも、だ。私の経験になぞらえて語ったところで、諸々は私の勝手な解釈だ。他の読者や書いた本人は「全然違うけど?」って思う確率の方が高い気もする。だからこのように記事にし、公開することは少し怖い。

 

だけど、どうしたってこれは私の物語であり、私が侵された小説であり、私が過去に侵入してしまった話だ。前にも書いたが文学なんて個人的なものなので、自分が「これは私の物語だ!」と思ったのなら、最終的にはそれでいい。

私はそう思わせてくれる力強い小説に出会えたこと、そこに感謝すればいいと思っている。(誤読は避ける努力をしているけどね、それでも自分に引き寄せちゃう癖ね)

 

 

 

 

 

 

何が言いたいかっていうと、山下紘加は最高だ。この一点だけ理解してもらえたら、記事を書いた意味がある。もうそれだけでいいや。

 

 

 

 

おまけ。

きっしょい文章書いてんじゃないよ、と自分で思ったけど私の生き方がきしょいんだった。仕方ないね、抗えなかったね。どうでもいいけど「きしょい」って言葉、変だわ。

 

www.vatican-exorcist.jp

これ観たんだけど、スクーターに乗ってるラッセル・クロウ、いいキャラしてたわ。実在したエクソシストの話。でもそんなに怖いということはなく、バディものでした。相方の成長っぷりも面白かったなー。

 

私は小躍りする猿。

 

この前、おまけに書いたアンリ・ミショー『みじめな奇蹟』が面白い。

 

まだ全部は読んでいないのだが(もったいないので少しづつ読んでいる)やはり詩人の文章という感じだ。この本はメスカリンやハシシなどの薬物体験記であるが、とにかくイメージを想起する言葉選びが面白い。

 

千のナイフ』という坂本龍一の曲名は、この本の文章からとったと言われている。

突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌め込み光線を閃かせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈りとれるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛びこんでくる。

 

私は坂本龍一の曲名にさほど興味はないのだ。『千のナイフ』を聴いても、このイメージは湧いてこなかったし。本当にこの文章から取ったのだろうか。それとも単に私の感性が鈍いだけなのか...。

むしろGLAYの『千ノナイフガ胸ヲ刺ス』の由来の方が気になっている。『灰とダイヤモンド』に収録されている曲だ。ナイフが千本もあると痛そうだっていうだけかな、とも思うのだが。でも『灰とダイヤモンド』は完全にポーランド映画のタイトルからとってるし、どうなんだろうか。誰か教えて。

 

 

下記の文章も良かった。

それから《白色》が出現する。完全な白色だ。

−中略−

興奮し、激昂し、白さで絶叫している白だ。熱狂的で、猛り狂い、網膜を突き刺して、無数の穴をあける白色。残忍で、執念深く、人殺しの、電流のように素早い白色。白色の疾風のような白色。《白色》の神。否、神なんかじゃない。わめきたてる猿だ。

 

ここまで白色白色と言われると、一瞬アンミカの声で再生されそうになった。そう考えると多様な白=アンミカなわけで、その印象を植え付けたのはすごいと思いう。

思うが、この文章ですごいのはアンミカではない。「わめきたてる猿」のような白色というのは的確な比喩だ。私は時々、真っ白が眩しく見えてしまって気持ち悪くなることがある。主に寝不足であったり、何かしらの不調を抱えている時だ。そういう時は明るい白色がチカチカして、目に刺さる。

別にメスカリンを摂取していなくても「白色が暴力的になり得る」のは安易に想像ができる。そしてそれを執拗に書いていくことで、反復することで、トリップ感を強調する。お手本のような文章だと思う。

 

 

私はしつこくて、人の湿度を感じて、狂気を内在し、かつ真っ向勝負の文章が好きだ。カラッとして読みやすいものもたまには必要だが、そういうものはすぐに忘れてしまうし、私の中に蓄積されない。

好きな小説の言葉は液体の中の澱みたいだ。ふと動いた瞬間にゆらっと漂うような、そんな風に私の中に存在している。いつも意識している訳ではないが、何かの拍子に現れては消える。澱はない方が見た目が綺麗かもしれないが、それがなかったらなんだか嘘くさい。澱を沈殿させている方が、私らしい気がする。

 

そうやって言葉が沈殿していくような面白い本を読むと、血湧き肉躍る状態になる。なんなら比喩ではなく小躍りしていることがある。家でひとりの場合に限るが。

昨日買って、少しだけ読んだ本も面白くて小躍りした。

 

基本的にエッセイ、日記は大好物だ。それが好きな作家のものなら尚更である。

高橋弘希の著書はまだ2冊しか読んでいないが、淡々と静かな描写が多いのに、ねっとりとしたものを感じて好きだ。内容も過激なようでいて、ただのインパクトに収めるのではなく地に足がついた真摯な描き方だという気がする。

 

このエッセイは、小説よりも軽妙で終始笑ってしまう。青森のこと、食べ物のことなど、変わったことをテーマに書いているわけではないのだが、そもそも語り口が『徒然草』なので、そこからテンションがおかしい。表紙に「くるって候!」と書かれているのが良くて買ったのだが、だいぶポップな狂い方である。(狂っているにはちがいない)

これはもっともっと、このテンションでエッセイを書いて欲しい。出たら絶対買う。とりあえず、まだ読んでいない小説を買おう。

 

 

あぁ、私もポップに狂った話でも書きたい。どうしてもポップなものは難しい。自分にないものを捻り出すのは大変なのだが、やってみたいのだ。

そんなことを思いながら、澱を浮遊させるべく小躍りすることにしよう。何かいい話を思いつくかもしれない。過去の言葉達が浮遊して、何かインスピレーションを与えてくれることを期待しつつ。

 

 

 

 

 

 

おまけ。

今日は短い文章にできた。最近の記事は前後編が続いたり、とにかく長かったね。

いつぞやの新宿某所の牛タン。高いけど好きなんだよね。

舌を食べたり内臓を食べたり、よく考えたらすごいな。感謝しながら余すことなくいただきますけども。

 

計画性はあるのに移ろいやすい人の会

 

昼も夜もカレーを食べるぞ!というお誘いを受けた。

 

私は辛いもの、そしてスパイス大好き人間なので当然のごとくカレーは好物である。連続で食べても飽きないし、ストレスで胃がやられるくせに、カレーの刺激では胃をやられることが少ない。

そんな私なので二つ返事でOKした。というか、誘ってきたのがいつもの友人なので、断るという選択肢は基本的にない。彼女は私が好きなものしか提示してこないからだ。

 

そして今回もPさんが一緒である。(下記の記事参照)

minakomovie.hatenablog.com

 

 

どのお店に行こうかとLINEグループで相談した。

まず文フリの時に作ったグループ名が、カレーを食べる旨の名前に変わった。そこから始まるのが我等っぽい。いつもの友人から文学的なものにだったら適宜変えていい、というお達しが出た。なにそれ難しい。

 

そして私たちは某カレーが有名な街で、ガッツリなスパイスカレーとジェラートを食べることに決めた。ここはいつもの友人おすすめである。私はジェラートを食べたことがあったのだが、カレーは初である。

写真を見ているだけでスパイスの幻臭がする。見た目だけでこんな美味しそうなことあるかね、という高クオリティのカレーだ。

 

夜は若干珍しいフィッシュカレーが有名なお店に決定した。こちらはPさんが気になったとのこと。

魚は魚で良いですよね…魚介の出汁ってなんであんな美味しいんだろう。生魚って嗅ぐと臭いのにね。でも臭いものは美味い、というのはテッパンである。ニンニクだってそうだし、レベルが上がるが納豆だってそう。くさやは知らん。

 

しかし、よく考えたら1日に2食のカレーなんて外食では珍しい。うちの人に「カレーを昼も夜も食べる会に行きます」と告げたら「は?(相変わらずバカなことやってんな?)」という反応だった。うちの人は癖がある性格のくせに常識人だ。

 

 

そして当日。

人気店のため開店時間の少し前に待ち合わせしていた。が、その時間のちょっと前にLINEが入る。もう全員着くところだ。早め行動の3人。

駅の改札を出て、先に居るであろうPさんを探そうと首を動かしかけた時、ズサーッと目の前に本人が現れてびっくりした。映画だったら効果音を足すよ、ズサーッて。そのくらいのスピード感を持って現れた。なぜか一瞬で私を認識できたらしい。謎だ。

 

Pさんはほんと眩しいな。まだ慣れない。目元の情報量にそわそわする。あと5回ぐらい会ったら慣れるかもしれない。(時間かかりすぎ)

 

そのすぐ後にいつもの友人が来た。安定のそわそわしない、いつもの友人である。

暑がりの彼女が珍しく長袖を着ていたのだが、アミアミだった。めっちゃ引っ掛けて穴ができそうな服だなと思ったすぐ後に、既にたくさん引っ掛けていることを自己申告してきた。

アミアミに更に穴。それはもう服と言えるのだろうか…?禅問答だか哲学だか、ただの阿保だかよく分からない問いが頭を駆け巡った。(アミアミって死語だよな。母親世代が使ってたけど)

 

 

駅からお店に移動すると、すでに10人近く並んでいた。

店内は狭いから一巡目で入れないやつでは?と思いながらも、並ぶしかないシステムなので大人しく待つ。日傘をさしたりストールを頭に被ったりしながら暑さをしのいだ。

いつもの友人とPさんは相変わらずお互いを触り合ったり距離が近い。(前出の記事参照)そんなに近いと暑さが増すだろと思うのだが、それはそれこれはこれの模様。

 

と、いつの間にか開店時間になったが、やはり私たちの前の組までしか入れなかった。

ラーメンや蕎麦なら回転も早いだろうが、いかんせんカレーである。私たちは近所のコーヒーをテイクアウトして飲みつつ待つことにした。だって暑いんだもの。

ジャンケンしてPさんひとりがチョキを出したため、残ってもらうことに...ならなかった。私といつもの友人は、その店のコーヒーを飲んだことがある上にブラック一択のため、Pさんは行って選ぶべきという話になった。無駄ジャンケン。

 

かくして私はひとり残り、メニューを見ながら迷っていた。

カレーは三種盛りにするとして、ジェラートの二種が迷いどころだった。どうせなら何種類もスパイスが入っているのがいいような。でもベースの味が好きそうなものも捨てがたい。いっそ全部食べたい。こうやって迷っている時間も食事のうち。前戯ってやつだな。こういうふうに書くと顰蹙を買いそうだが、食事はそもそも、...まぁいいか、そういう話は。

 

ふたりが戻ってきて少し後、ようやく店内に入ることができた。食券を買って注文を終えると、いそいそと奥の席に座った。いい香りのする店内、気持ちが盛り上がってきた。

カレーの提供はわりと早かった。それぞれのカレーの内容と、混ぜても美味しいよ的なこと、レモンの皮のピクルス?みたいなのは酸っぱいから少しずつね、などと説明を受ける。そしてついに!

ひどく大まかに言うと「辛いの普通の辛くないの」の三種盛りを食べたのだが、本当にどれも美味しい。混ぜて食べると味わいが深くなっていくので、スプーンで三種を順に口に入れていく。口の中でスパイスが程よく暴れ、鼻に抜ける。爽快だ。暑い日に最適だよ。

 

ちなみに私はルーとご飯が別盛りの場合、ご飯にはかけないことが多い。もしくは少量ずつしかかけない。たまに豪快にぶわーっとかける人がいるが、そうすると「せっかく別で提供されたのに...」と謎の惜しい気持ちが出てくる。「綺麗なご飯」をなるべく保ちたいのだ。

そんなこと食べるときにいちいち考えるんじゃないよ面倒だな、だいたい口に入ったら同じじゃないか、綺麗なご飯ってなんだよ綺麗って...とセルフツッコミするわけだが、どうにもこうにも治らない。

こんなところで綺麗さを求めてどうするんだろう、部屋なんてめちゃくちゃ汚いのに。

 

話がカレーから逸れたが、みんなモリモリ美味しそうに食べ進めていた。青唐辛子のピクルスを追加できるのだが、それもモリモリ。いつもの友人は頭の毛穴が開いたとか言っていた気がするが、美味しすぎて最初の方の記憶が曖昧な私。

 

突如、Pさんが「酸っぱい」と言い始めた。なんのことかと思ったら、レモンの皮のピクルスの話だ。それはさっき店員さんが説明してくれてたんだよ、気をつけろ、って。Pさんはしっかりしてるかなと思いきや、案外その辺はふんわりしてる。

 

カレーを食べながら、いつもの友人がPさんの仕事・生活について興味津々で根掘り葉掘りしていた。仕事的には私といつもの友人が同じような部類で、Pさんはちょっと違う。気になるのはよくわかる。Pさんはそれに対してきちんと返していく。

 

人は根掘り葉掘り質問されると「めんどくさい」とか「失礼だな」と受け取る場合がある。警戒心が働くんだろう。もちろん関係性にもよるが、質問に対して全力で返ってくることはわりと珍しい。

でもいつもの友人は「警戒心を抱かせないタイプ」であり、彼女の持っている嫌味のない好奇心とか嘘のなさとか、それが他人を巻き込んでいくんだと思う。

私自身はそういうタイプではないのだが、周りにはけっこう居る。テンション高いめで天然っぽさや無邪気さや茶目っ気があり、自分を変に取り繕うことをよしとせず、気がついたら人を惹きつけて自分の味方にしていけるタイプ。

私はそういう人たちを勝手に「ローリングストーン」と心の中で呼んでいる。

勢いよく転がってきたと思ったら、周りの石にぶつかって一緒に転がり始め、方向を変えてしまったり、物によっては遠くに蹴散らしながら我が道をゆく人々。(本来の意味とは全然違うけど)

そうだ、「いつもの友人」って書くの面倒だからRSにしよう。

 

 

…どこまで書いたっけ。

仕事の話をしつつ、なぜか養命酒の話や睡眠の話をし、ジェラートも無事に食べ、満足感とともに店を出た。夕飯のカレーまでは時間があるので、文具と雑貨のお店に向かうことにした。

 

店内は可愛いものがたくさんあったが、ナマケモノのキッチンスポンジが良かった。何がいいってナマケモノの動き、雰囲気が私っぽいから。

Pさんも気になっていたようだが、どちらかというと彼女はナマケモノに似ているのではなく飼っていそう。ワシントン条約で飼えないとは思うが。じゃあ、私を飼ってもらえば解決…別に誰も解決を求めてないか。

 

さらに近くの香りものを売っているお店に寄った。ここは私がいつもいくところだ。ここはいいや、書こうと思ったけど割愛。

 

 

さらに、次は本屋さんへ。ここで3人とも興味を持った本があった。

 

最恐の物件集…とても気になる。

怖い話は好きでも嫌いでもないのだが、「家」という空間が持つ力というか磁場というか、そこに溜まっていく気配のようなものに興味がある。

引っ越しで物件を見たりすると、ゾクゾクする。霊的な意味ではなく、本来は人がいるはずの部屋が伽藍堂だと「不均衡な状態」を見てるって感じで妄想が捗る。

 

ちなみにこの表紙の写真は山谷佑介さんの作品だなとすぐに分かった。好きな作家さんが表紙だとますます欲しくなる。

yusukeyamatani.com

 

そういえば、山谷さんは磯部涼さんとも組んでいたね。

 

私は本屋でもスーパーでもそうなのだが、誰かと一緒に来ていても目の前のものに夢中になり、だいたいはぐれる。はぐれると言っても店内のどこかにはいるし、最終的に合流はできるから何の問題もない。

と、私は思うのだがうちの人は文句を言っていたな。スマホだってあるし、子供じゃないんだから館内放送してもらう必要があるわけじゃないのに。何が困るんだろう。とか言うと余計怒られる気がするので、スーパーでは頑張ってフラフラしないようにしている。

しかしこの本屋では、それぞれがフラフラと本を物色していた。途中で遭遇して手に持っている本を確認しあったりなんだりしながら、また離れたり。我々は漂う原子。

 

 

そして、本屋を出ると問題発生。

RSとPさんが「夜もカレーはキツイ」と言い始めた。正直、私はそこまで胃はやられていなかった。冒頭で述べた通りスパイスに対しては丈夫だ。とはいえ既にふたりがギブを表明している以上、ここでごねる意味はない。

何より私はただの食いしん坊なので、美味しいものが食べられるのであればなんでもいいのだ。「夜もカレーって言ったじゃん!なんでよ!」と号泣する程のカレー愛もない。

 

かくして我々は蕎麦屋の検索に走った。そう、胃が辛い時でも蕎麦は食べられる。

もちろん「走った」は比喩なのでスマホを片手に美味しそうな店を探す。近くに評価の高い蕎麦屋があった。私はよく行く街なのに全く知らなかった。こういう発見は嬉しい。

 

またまた人気店のようなので、開店時間に合わせて向かうことにした。この時点でもう口の中は蕎麦である。早く食べたくて仕方ない。あんなに2食ともカレーだ!と言っていたのに、あっさりと裏切るわけである。...何を裏切ったんだろう、自分自身?

また雑な哲学の問いに迷い込みそうになったので、蕎麦を頭に思い浮かべて集中した。私は自分自身の欲望に忠実なのだ、なにも裏切ってはいない。

 

歩きながら、いつもの友人の仕事の話になる。なんかRSって呼び方が全然馴染まないから、元に戻す。

彼女の仕事上の相談っぽいものを受けながら、蕎麦屋に行くとちょうど開店時間くらいだった。行列もないのでいけるかな...と中に入ると満席。またちょうど我々の前で満席だ。そのまま椅子に座って待つことにした。相談、続行。

私の視点、Pさんの視点、それからいつもの友人の意見を受け入れる速度。わりと円滑な会話だなと思う。かといって、なあなあという訳ではない。わりとタイプがバラバラな3人だとは思うが、通奏低音があるような気もする。じゃないと(特に私は)会話が円滑には進まない。

 

一時間ほど待って、ようやく蕎麦にありつけることとなった。

暑かったからね、冷たい蕎麦にしたよ。あとハイボールも頼んじゃったよ。Pさんも何か忘れたけどお酒を頼んでいた。ビールだったかな。

暑い時はお酒が進む。だが最近は歳のせいかお腹を壊しやすくなった。スパイスは平気なくせにお酒で下すとは。自分で自分の腹事情が分かりかねる。

 

おつまみをちょこちょこと食べながら蕎麦を待つ。もうおつまみの時点で十分に美味しいので、これは期待できる。そしてやってきた蕎麦を見ると、Pさんの天せいろ、かなりボリューミーだ。しかもえのきが扇みたいに揚げられている。なにその見た目。

カレーは食べられないが天せいろは頼んじゃうPさん、やっぱり面白い。しかもおつまみで、とうもろこしの天ぷらもあったのにね。

 

一時間待ってようやく食べた蕎麦は、細くコシがあって人気の理由が分かる美味しさだった。つゆも辛口ではあるものの、主張が強いタイプではないので、ツルツルと蕎麦が進む。たまに、ものすごく甘いのとか鰹節を五年漬けてたのか?みたいな蕎麦の味を邪魔してくるタイプのつゆを出す蕎麦屋があるが、ここは本当に蕎麦を引き立ててくれる感じで好みだった。これはまた行く。

また行くって書いておいてなんだが、私はお酒を飲むとすぐにお腹がいっぱいになってしまうので、いつもの友人に少し蕎麦をあげた。いつもの友人、蕎麦はたいてい大盛りで食べる人だ。蕎麦ならいくらでもいけるっぽい。呼び名をRSじゃなくてSにしようかな、SOBA。

 

蕎麦屋でひとしきり人間関係などなどの話で盛り上がったあと、食後の珈琲を飲みに行くことにした。

私は飲酒後に珈琲かアイスを摂取するのが好きだ。とても良い気分になるし、落ち着く。だがお腹には悪い。飲酒後の珈琲かアイスが腹下しを加速させている気がする。悪習は改めないと、そのうちスパイスにも弱くなってしまうかもしれない。それは困る。

 

困るのだがしかし、欲望に忠実な私は夜でもやっている喫茶店を探した。

茶店巡りが趣味なので、リクエストを聞いてそれっぽい店を提案した。老舗のケーキが売りのところで、珈琲はどっしりとした味の落ち着いたお店。かなり昔に2・3回行ったことがあったが、久々にそこの珈琲が飲みたいと思った。

PさんもSもそこにしよう、と言うので向かう。歩きながら、ちょっと汚い話をした。物理的に汚い話だが、我々の中ではそんなに汚い話でもない、そんな話。...どんな?

 

その話をひきずったまま喫茶店に入ると、運良く空いていた。落ち着きそうなので奥まった席を選ぶ。Pさんが「この席めっちゃいい」と喜んでいる。分かるよ、背中に壁があって囲まれているところは安心感ある。ちなみにSの後ろは大きなガラス張りの窓。私の後ろは別のテーブル。なに、なんかの比喩?何かは全く分からないけど。

それぞれブレンド珈琲を頼み...Pさんがシフォンケーキを注文。え、食べるんだ、食後のデザート食べちゃうんだね。

我々はPさんのシフォンケーキをみんなで食べるためにそれぞれのフォークをもらうか迷い、Sはむしろ同じがいいとか「汚」に引っ張られたままの状態で、濃ゆい珈琲と会話を堪能し始める。

 

そこに、店員さんが頼んでいないのにフォークを持ってきてくれた。「もし同じのが良かったら同じのでどうぞ」とか言いながら。会話が筒抜けじゃないか。我々、爆笑。店員さん、最高。気を利かせつつ、サラッと冗談を言って去ってく感じ。一瞬にして我々の心を掴んだ彼の顔が、マスクと前髪と暗い照明でほとんど分からなかったのは残念だった。

ということはあれだね、今までのアレな話も全部聞かれていたんだね。我々は店員さんに心惹かれたが、彼の方は「なんか酷い会話をしている客がいるな」という認識だったかもしれない。この場を借りて謝罪します。いや、申し訳ないのでまたお店に行きますね。(会いたいだけ)

 

茶店でも人間関係とか、自分が何をどう考えながら行動しているかという、それなりにディープな話をしていた気がする。仔細な脳内の話というか...意識できるギリギリのところの話、みたいな。まぁ夜更ですから、そんな話にもなるよ。私はこういう会話がとても好きだな。

 

店を出る時に、我々はかの店員さんをそれぞれのタイミングで凝視した、と思う。重ね重ねすみません。申し訳ないからまた行くもんね。

 

駅まで歩く道すがら、Sが知り合いに遭遇していた。しかも自転車に乗ったふたり。なかなか引きが強いというかなんというか。

そして改札前で解散となった。午前中から始まり、半日近く。かなり長いな。長くいても飽きないっていうのはすごい。SとPさんが私に飽きているかいないかはさておき、私は箇所箇所で興味津々だったので飽きなかった。ただし全く悪い意味ではなく、何かしらのパワーは消費した気がする。...暑かっただけかもしれないが。

 

 

 

 

 

そんなこんなで、この3名で集まる会は今後も開かれるっぽい。その度に私はブログを書くと思う。面白い人たちの記録、何が起こるか分からない会の記録ってことで。

 

 

 

 

 

 

おまけ。

珈琲も好きだけど紅茶も好き。ここの茶葉は良いですよ。

 

それからここは、今度行ってみようと思っているお店。東京で唯一のロンネフェルト認定ブティックらしい。紅茶のかき氷が食べられるんだよね。

tabelog.com

 

 

 

 

履歴が徳島だらけ

 

阿波しらさぎ文学賞の話、後編。

 

徳島のことをまず調べなければ。

そう思ってブラウザを立ち上げたものの、とっかかりがない。私は普段から映画になりそうな気になるネタや、良さそうな風景をメモっているので、ひとまずその中に徳島が関係するものがないか調べた。

いくつかあったので、改めて検索してみる。それを更にWordでまとめていく。しかし、いまいちどれも小説にしようと思うには至らず。

 

でも何か探さねばならない。

仕方がないので手当たり次第、観光地を調べたり、とにかくYouTubeで徳島の動画を見てみた。すると、とある山にある集落の話が目に入った。

いわゆる限界集落の話を書きたい、そう思った。徳島の良いところを掬い取る話が書ければ良いのだが、そもそも私のアンテナはまずマイナス部分に反応してしまう癖があるのだ。

もっと食だとか文化だとか、もしくは躍動感のある題材を取り上げる方が書きやすそうだと思いつつも、その集落の風景が頭にこびりついてしまった。

 

そもそも私は「限界集落」という言い方が好きではない。確かに人口などが限界なんだろうけども。そんなモヤモヤした気持ちを含めたものを、小説に書いてみようと決めた。

 

そこからは連想ゲームだった。というか脚本を書く時も連想ゲームをしていくのだが、その時間がわりと楽しい。その集落の記事を読み漁り、写真を眺め、思いつくことを箇条書きにしていく。

さらに自分の頭やスマホにストックされている「気になっていること」と結びつくものはないか、かけ離れているようで実は接点があるものを探した。

 

そして方向性とおおまかな概要はサクッと決まった。15枚にどう収めるかについては若干不安だったが、ひとまず書き始めることにした。

 

だがしかし、書き出しが難しい。

先日もTwitterで「小説の印象的な書き出しを教えてください」みたいなものを見かけたが、1行目は当然大事である。これは脚本でも「ファーストカットが素晴らしい映画は傑作である」みたいなところが少なからずあるので、印象的にしようとは考える。

特に気をてらわず何気ない導入に思えても、小説の1行目は考え抜かれているものが多いのだと思う。

 

脚本の場合は文章そのもの、語彙を使って印象的にする必要はないので、案外サラッと書けることがある。しかし小説は文章そのものが完成品なので、1行目がなかなか書けなかった。

 

というわけで、まずは「たぶんこんな感じになるであろう」という一文を書いた。保留だ。

そのあと、最後まで書き上げること自体はそれほど大変ではなかった。脚本のように頭の中の風景を書き出し台詞を書き、それに加えて脚本では省く主人公の気持ち、みたいなものを織り込んでいく。

途中で「こりゃ15枚じゃ足りん」と思ったが、想定より早い段階で終わらせる話に切り替えた。するとギリギリ15枚に収まった。

 

しかし、ここからが苦行だった。

まず勢いで書いたものを読み直し、単純に悪文であることに愕然とした。そりゃ最初から上手く書けるなんて思っていないが、とにかく読みにくい。

簡潔にと思いすぎて一文が短すぎたり、かと思いきや修飾語が長かったり変なところにあったり。句読点の使い方もおかしいし、ドヤ顔でよく分からん比喩するのもやめろ!

と、私は今まで脚本書いてきたくせに、やばすぎるだろうと思った。テーマがどうとか、話の流れがどうとかいう問題ではない。文を!ちゃんと書け!読めないだろ!

 

そこから何度も印刷して読んでは直し、読んでは直し、声に出して引っかかりが出るところを修正し、ということを締め切り直前まで繰り返した。

その合間に話の流れもを微調整し、単純な誤字脱字もチェックしているうちに、1行目も「これだな」というのが書けた。

…で、タイトル忘れてたな?

 

タイトル大事。とても大事だ!なんで最後まで放置したのか。

シンプルにしようと思ったが、話そのものが暗喩なのでどストレートにすると合わない感じになる。かと言って変に凝ったのとか、文章みたいな長さにはしたくない。作者のドヤ顔がチラつくものは嫌なのである。

 

単語を書き出しまくり、連想語を検索しまくった結果、造語みたいなものになった。めちくちゃフィットするタイトルは見つからなかったが、わりとふざけてて私っぽいものだと思う。ドヤ顔がうっすら透けて見えなくもないが、薄いから許容範囲とした。

 

最後に募集要項を隅々まで読み返し、不備がないようにチェック、締め切り少し前に郵送で提出した。

郵送にしたのは、なんかやり切った感が出るからだ。物理。しょうもない理由。

 

書くこと自体を迷ったが、思い切って書いてみて良かったと思う。改めて物語を編むことの難しさ、読み直して改稿することの大切さを痛感した。さらに、それがなんだかんだ楽しいと思えた。

そして何より、好きな作家のことをより好きになった。こんな大変な思いをして作品を世に送り出してくれていることに感謝しかない。常々思ってはいるが、自分で書くと骨身にしみた。

 

 

と、やり切った感が出たところで、あることに気がついてしまった。

私は基本的な小説の書式ルールをひとつ、破ってるではないか。破ったというか、なぜかそちらが正しいと思い込んで書いていた。今まで何冊読んだんだよ。

書式の問題なので中身には関係ないし、応募のルールを破った訳でもないし、それが審査に影響するかもよく分からないが。

 

そういうところだよ!人生において変な、かつ大きなミスが多すぎる。気をつけているはずなのにこれだ。もし気を抜いたら何が起こるのか、怖すぎるので考えないことにする。

 

 

 

 

 

安定のエラーを起こして、私の阿波しらさぎ文学賞初応募は幕を閉じた。

来年も気が向いたら書こうかな、と思うくらいには良い体験だった。

 

 

 

 

 

おまけ。

oldtimeの販売中作品一覧 | ハンドメイド通販・販売のCreema

いくつになっても、こういうのを見るとテンション上がる。可愛い…。

 

 

 

 

 

 

 

ワープロに感熱紙、の時代をご存知か。

 

だいたい25年振りかぁ、と書き終わって気がついた。

なんのことかというと、小説である。15ページほどなのでたいした長さではないが、四半世紀振りに小説という形態のものを書き上げた。

 

私は小さい頃から文章を読むことが好きで妄想が捗る子供だったということもあり、7歳の時に初めて「お話」を作った。それはイラストを伴う絵本のようなものだったと記憶している。

 

さらにその後、詩を書くこともあった。ただこの手のものはどこかで「誰かに褒められるために書いた」節があった。大人になってから内容を読み返したら親や先生が褒めそうなものだったのだ。(実際褒められたこともあった)言ってみれば読書感想文が創作になっただけ。

 

純粋に書きたくて書き、かつ他人様に見せるのには勇気がいる「思いを吐露した」ような小説を書いたのは小学校高学年だったと思う。この頃は漫画も描いていたし、作詞作曲に挑戦したこともあった。なにかやりたくて仕方がないお年頃だったようだ。

どれも実家に痕跡があると思うが、恥ずかしいので発掘したくない。60歳くらいになったら直視できるかもしれないが。

 

その後、16歳くらいまでに数本の小説を書いた記憶がある。長いものはあまりなく、短編をぽろぽろと書いていた。

ワープロで!感熱紙を使ってだ!急に思い出して懐かしくなった。60歳で読み返そうにも、もう字が消えている可能性がある。

 

小説の内容としては、吉本ばななにハマってちょっと真似したり(『つぐみ』がとても好きだったな…)、家族の話や恋愛ものを書いたり、いろんなジャンルを書いていた。

 

ただ、10代半ばくらいからはかなり映画に傾倒していった。そして17歳で初めて脚本を書いたあと、小説を書くことは一切なくなった。するっと完全に切り替わったのだ。

頭の中にある映像を実際に作る、という欲求が文章を書くことを軽やかに超えてきた。

 

 

そんな私がなぜ思い出したように小説を書いたのか。

『阿波しらさぎ文学賞』という賞に興味があったのだ。

私は最終審査員のおふたりのファンである。小山田浩子さんに吉村萬壱さん。こんな賞は他にない!この何を書いても一旦は受け入れてくれそうな感じが好き!

 

別に他の賞が正当なものしか受け付けないとか、そういう意味ではない。良いと判断されればどんな奇想天外な小説だって受賞するだろう。小説は自由なんだ。

 

だがしかし。このふたりは私の中ではちょっと特殊というか別枠というか。かなり突き抜けていると思っている。

小山田浩子さんの作品に関しては、普遍的な部分がありつつも何か不穏だったり捩れていたり、ゾワッとするような描写があったり、そうかと思えばすごく共感することや驚くような文章の展開に目を丸くしたり。

エッセイでは温かみやおかしみを感じて顔の筋肉がゆるゆるになったり。もうなんというか、私にとっての宇宙。宇宙みたいなんだ。

 

吉村萬壱さんに関しては読む人を選ぶ作品も多く、エグかったり汚かったり痛かったりする。でもそのカオスの中で人間が、人生が、愛も悪も快楽もなんもかも丸出しになって暴れていて爽快なのだ。

シモ、シモ、シモ、から人生の滑稽さに爆笑したり、かと思えば時代を辛辣に見つめている内容に唸ったり、自分の話を正直に綴っているエッセイに関しては「ありがとうございます」の気持ちで、本棚に面出ししている。

小説やエッセイを書いてくれて本当にありがとうございます、届けてくれてありがとうございます。

 

小山田浩子さんが宇宙的なのであれば、吉村萬壱さんは私にとってのお月様みたいな感じである。

規模感を比較しているのではなく、距離というか心の中にある在り方しての、空気感の比喩である。読んでる方に伝わるかどうかは分からないが。

 

こんな最高のおふたりが審査員。出したい。読んでもらいたい。なんの欲求だかピンとこない人もいるかもしれないが、推しにファンですっていう長い手紙を書きたい、ぐらいの感じかなと。

 

でも小説家になるぞ!と思った訳でもなく、脚本とも違うので書き切れるかどうかも分からない。

四国といえば香川県には何度も行っているのだが、徳島県は立ち寄ったりする程度で、土地に詳しい訳でもない。

そもそもそんな奴が書いていいのかね?書いたところで、最終審査まで残るとでも?毎年400以上は応募がある賞で、読んでもらえるなどと考えるのは馬鹿なのでは?

 

逡巡したが、書くことにした。

別に何か減るもんじゃないし。考えようによっては時間が減るのだが、嫌なことに使うわけではない。むしろ楽しそうだ。始める理由なんてそれくらいが丁度いいかもしれない。

金原ひとみさんだって「何でもいいよ!小説書けたら送ってみて!」と、すばる文学賞のコメントで言っているんだ。(前にバズっていたな)

 

書くと決めたからには、必ず出すところまでやり切るという決意をした。そもそも自分で決めたことはやり遂げたい性分だし、曲がりなりにも脚本を書くことがある人間として「物語を仕上げられない」ということは沽券に関わる。

どんな駄文になろうと構わずに、やり切ることを目標に据えた。

 

そして何より、私は自分の欲求に忠実なのだ。書きたいんなら書けよ、読んでもらいたいと思ったなら送れよ、と思った。

達成できるかは別として、まず出さなきゃ可能性はゼロなのである。まぁ、いつもそうなのだ。映画だって作らないと見てもらえない。映画祭に出さないと、受賞はない。

 

かくして、原稿用紙15枚以内の小説との格闘が始まった。

 

 

 

 

なんかまた疲れてきた。

またしても前後編パターンとなります。ダラダラ書くからだよ、ほんとに…。

 

 

 

 

 

 

おまけ。

「沽券に関わる」って変換しようとしたら「股間に関わる」が一番最初に出てきて、iPhoneを投げそうになりました。

あとねー、この本を買いました。画家で詩人のアンリ・ミショーによるアレな幻覚剤の体験記…。「千のナイフ」の元ネタ。

オルダス・ハクスリー『知覚の扉』やマイケル・ポーラン『意識を揺さぶる植物』と読み比べたいところ。